2015年01月30日
竹鶴物語・その2
竹鶴さんが日本を発ったのは1918年(大正7年)6月29日。 神戸からサンフランシスコ行きの船に乗りました。 メリケン波止場には摂津酒造のスタッフ一同と、母や鳥居さん、山本為三郎さん(のちのアサヒビール社長)などが見送りに来たとか。 なぜスエズ経由の船ではなくアメリカ経由にしたかは、中学の先輩で、カリフォルニアで苺栽培をやっている人が一時帰国していて、その人が、ワイナリーを見学できるよう紹介するとのことでアメリカ経由にしたとか。 船賃は1等が415円、2等が207.5円、3等が84円。 教員の初任給が15円、大工の日当が1.5円なので、現在は8000倍とすると、1等が332万円、2等が166万、3等が67.2万円になります。 何等に乗船したのか書かれていませんが、3等ですよね。 船旅は20日間で1918年7月19日にサンフランシスコへ到着。 (「20日間」との表現ですけど、日付変更線を通るから、21泊22日になるような気もします) アメリカでの最初の買い物は90セントのワイシャツ。 当時1ドルが2円だったので、1円80銭ですが、今の貨幣価値では1万4千円くらいになるはずです。 アメリカの物価は日本の数倍ということになりそうです。 当時の経済力の差を考えると、そんなものでしょう。 サクラメントに1ヶ月滞在したそうで、日中はワイナリー見学、夜間は英語の勉強をしたそうです。 英語に自信があったのに、アメリカに着いたら聞き取れないし、通じなく、愕然としたそうです。 サクラメントに1ヶ月滞在してニューヨークへ移動し、イギリスへの船の予約とビザの申請をしました。 新学期に間に合わせようとの考えだったのですが、しかし、第一次大戦がまだ続いていた関係で、なかなかビザが下りず、約3か月後の11月に大戦が終結し、ビザが発給され、12月にリバプール行の船に乗りました。 スエズ経由を選択したら、もっと早く行けたのかも知れませんが、アメリカで語学力を高めることができてよかったかも知れませんね。 スエズ経由で行っていたら、フランスで足止めくらったかも知れません。 ひょっとして、フランス人と結婚し、ブランディーを作るようになったかも。 アメリカ大陸横断鉄道と大西洋航路の運賃と日数を知りたかったのですが、記されていませんでした。 次回はスコットランドでの話を紹介したいと思います。