2011年04月14日
泥棒に十手をもたせる日本の安全規制
東海村で臨界事故があったあと、週刊金曜日では20回くらいの連載で「原発亡国ニッポン」が書かれていました。 バックナンバーはもう売ってないので、図書館で読んでほしいです。 1999年10月頃から2000年3月頃までです。 井田徹治さんが書いたのを一つ紹介しておきます。 1970年に定められた核燃料施設の安全審査指針には「誤操作などにより 臨界事故の発生するおそれのある核燃料施設においては万一の臨界 事故時に対する適切な対策が講じられていること」とある。 誤操作かどうかはともかく、臨界事故を起こしたJCO東海事業所の施設は 明らかにこれに違反する。 ところが、科学技術庁も原子力安全委員会もこれを見逃した。 事故が起こった沈殿行程では「行程に入れる前に前行程で得られた 硝酸ウラニル液の濃度と液量を測定することで安全質量以下であることを 確認するので安全上問題はない」とする業者の説明を鵜呑みにして設置を許可。 原子力安全委員会もこれを追認したのだ。 <簡単な質疑と書面審査だけで操業を許可> 日本の原子力安全規制は、まず通産省や科学技術庁など行政が審査を行い、 原子力安全委員会がその妥当性をチェックする二重審査が建前だ。 だが、行政庁の役人にも、原子力安全委員会にも、それだけの能力を備えた人材はいない。 企業の説明を行政が鵜呑みにし、その結論を安全委員会が書類の審査だけで 追認することになっている。 原子力安全委員会は一応、独立の機関である。しかし、委員はほとんどが大学の 名誉教授クラスで、最新の知識とはほど遠い人々だ。 しかも現地調査はしない。企業から直接事情を聴取しない。重大な問題が簡単な 質疑と書面審査だけで決められている。 つまり独立機関というのも名ばかりだ。 委員会室も事務局を務める科学技術庁のなかにある。 1995年の旧動燃(現・核燃料サイクル機構)のもんじゅ事故後、原子力安全委員会の 独立性を問う声が上がったのに対し、科学技術庁が、原子力局と同じ階にあった 委員会室を、別のフロアーに引っ越しさせ「独立性を高めた」と言って、世間の失笑をかったことすらある。 もんじゅ事故を受けて、中川秀直科学技術庁長官(当時)が「安全委員会を 公正取引委員会のような強力な独立機関にする」との案をぶちあげたことがある。 長官の頭にあったのは、米国の原子力規制委員会(NRC)だ。 3000人以上のスタッフを抱え、立ち入り検査や告発などの強力な権限を持つ。 だが、当時の科学技術庁は消極的。通産省と業界の反発も強く、実現しなかっった。 ある業界関係者は「NRCの権力が強すぎたことが米国の原子力開発をストップさせた一因。 強力な第三者機関より、企業と日常的に付き合いのある行政庁の方がはるかにやりやすい」と語った。 97年、原子力産業が開いたシンポジウムでNRCのジャクソン長官は「創設当時は 抵抗が強かったが、企業との緊張関係が生まれ、市民への情報公開も進み、 米国の原子力安全のレベルは向上した」と語った。 もんじゅや旧動燃再処理工場の爆発事故など、大きな事故のたびに同じ問題が 指摘されてきたにも関わらず、原子力推進側と、規制側が同じ省庁に属する状況は変わらない。 これでは泥棒に十手を持たせるようなものだ。 市民の信頼など得られるはずもなく、実効ある安全規制など望むべくもない。 事故直後から科学技術庁の関係部局の部屋には「関係者以外立ち入り禁止」の 張り紙がされ、クラブ詰めの記者さえ部屋に入れなかったという。 企業の話には耳を傾けても、市民の側を向こうとしない役者。 実体のない原子力安全委員会。 そこに日本の原子力開発が抱える最大の不幸と事故が続出する原因がある。