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2015年11月22日

目的と手段

戦争やテロや反目や差別や、世界や国内の各地でおこる争いごとでは、それ相当のいわゆる”目には目”的な、やられたらやり返す対応策はすぐに思いつくし、手っ取り早いし、あまり疑いを持たないことが多いですが、それ以外の、もしかしたらもっとずっと効果的な手段がありそうなきがします。

もっともその渦中にいれば、並大抵でない哀しみや怒りで冷静になれるはずはないし、今ある脅威に対してそんな余裕はないと反対されそうですが、だからこそ、なんとか考えようとすることが大切なように思います。

江戸時代の仇討ちのように、やられたら次はその子孫が相手を見つけてやり返す、そこでまたやられたほうの子孫がまた相手を見つけてやり返す・・・昔なら情報も交通手段も多くなく、武器もせいぜい刀くらい、幸いなことに仇討ちには限界があったでしょう。

でも、武力に頼れば武力で戻ってくる、その繰り返しは、情報も、交通手段も、武器も、恐ろしいほどに発達した今の時代には、かなり危険なことです。
戦い続ければ、地球に一人の人間もいなくなるまで続く可能性だってなくもないですもんね。

恐竜が滅びて哺乳類の世界になったのは、自然の脅威でしたが、人類の場合は、文明の発達についていけなかった精神の至らなさによって自ら滅んでしまうかもしれない。
最終的には、そちらのほうがよほど怖く悲しいことですもの。

パリでは、身近な人を亡くしたり間近で起こったショックにも関わらず、憎しみはあげない、いつもどおりに生活を楽しむことが一番の対処法だという流れもあるときいて、さすがフランスだなあと感動しました。
報復はすぐに思いつきますけど、どんなときも気持の余裕を忘れないことは、それよりずっとずっと難しいけど大事なんだなあと。
尊敬します。

目的のために選ぶべき手段は、1つではない、いつもいくつか見つけ出せるものだということを知っておくことは、そいういときに役立つかもしれないですね。

日本では、沖縄の基地建設にたいして、政府は、これしかないと追い詰めている(一応パフォーマンスはありましたが)のを見ていると、なんと気持ちの狭いやり方なんだろうと思ってしまいます。
あれだけ県民の選挙で選ばれた沖縄県政府が反対していることを、あたかもそれしか方法がないようにごり押しするのは、国側の怠慢です。

今の沖縄は、ありがたくないごみステーションの場所が自宅玄関横に当たった気の毒なお家のようなもの。
お宅もゴミ捨ててるんでしょ?反対するのはあなたのお宅だけですよ、さあどうする?と迫られて近所付き合いの手前もあるしと窮しているような感じ。

第一、何かをアセスするときは、当然、代替案がいくつか用意されるはずなのに、未だ日本では、見掛け倒しのアセスなんでしょうか。

でも沖縄のことにしても、「それしかない」といわれると、不思議なことに、私たちは、そうか、それしかないのかもねと、意図的にしても無意識にしても思ってしまうふしがあるように思います。
でも、ちょっと頭をかしげて、はたしてそうか?と思い直すのも、必要なんじゃないかしら、後悔しないためにも。

誰もが納得できる世界ってのは夢物語かもしれません。
でも、少なくとも、それに関わる多くの人が1%でも多く納得できる方法を見つけえだすことは、世界のために、ひいては自分や自分の家族や友人のためにも大事です。
一部の人や地域の不満を全体の圧力で押し込めてしまうのは賢いやり方じゃないし、民主主義ともいえません。

私達も常に、私達がやっていることが公平なことなのか、正しいことなのか、他にすべはないのかを自問する必要があるんでしょうね。
そうでないと今の世界、軽はずみに大きな誤解や事実無根の差別を招いたり、誰かを窮地に追い詰めたり、前の戦争のように、多くの日本人が本意不本意にかかわらず、戦争という大きな流れに従ったような、悲しい時代にだって舞い戻らないとは限りません。

後々後悔するような大きな流れを作り出していた、なんて取り返しの付かないことになっては、結局人間は自分たちを滅ぼすための文明を発達させた愚かな生き物だったってことになっちゃいますものね。
もし創造主というものが居るとしたら、何やってんだ、こいつらってことになりそう。

posted by じゅうよっつ |14:54 | 考えごと |