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2012年08月17日

医は話術

先週末、久々の暑い夏をたっぷり味わって、北九州から戻ってきました。
福島も暑いですが、朝晩は過ごしやすいところが、やっぱり東北です。

今回の帰省は、父の具合が悪くなったのが理由でしたが、一時は人事不省に陥った父は、もともと体力があったのも幸いして、持ち直してくれました。
まだ、すっかり安心と言うところまではいってないですし、今迄父と母二人で協力し合って生活してきたのが、いきなりすべて細い母の肩に掛かってきたのも心配ではあります。
年を取ると、普通に起きて掃除をしたり買い物したり洗濯物を取り入れたりという普段の生活をすることが、こんなに難しくなるのだと、実感しました。
ふたりとも、いつの間に年取ったんだろう・・。
親不孝の娘で申し訳ない・・。

父は、かかりつけの病院から救急車で転院し、厚生年金病院に2週間ほど入院しました。
担当の先生がとてもいい先生だったのは幸運でした。

運ばれた日の夜は、画像を示しながら、こういう状態で、これから先、こういうことが心配で、こういう措置をとってますという説明を、メモをとっている私を待ち待ち、していただき、その後も何度も、機会に応じて、本人や家族に少しずつかみ砕いて、気軽に説明してくださったので、おかげで、かなりよく病状を把握することができましたし、気持ちを上向きにして治療にのぞむこともできました。
思いやりのあるユーモアを交えた説明は、父や家族が、これから少しずつよくなっていこう、いけるという思いを持つことも出来ました。

考えてみれば、お医者さんは、どこかが弱っている人に話しかけるのですから、事実を伝えるにも、同じ内容でも、言い方によっては、その後の患者の生き方を大きく左右してしまうのというのは、決してオーバーな言い方ではありません。

その後、余病の治療のために初めて行った個人病院で、「初盆に間に合わなかったなんてことになるところだったのに、余病の治療まで考えるなんて贅沢だ」と言い放たれたときには、これから良くなっていこうと意気込んでいる父が、黙ってそれを聞いている姿に、胸が締め付けられました。
よほど、「先生に治してもらったんじゃありません」と言いたくなりましたが、はやくこんな場から父を連れて帰りたいと思いました。

実際のところ、万が一のときの施設が整っていないというのが、治療を拒否した理由だったことが、その後のお話から分かりましたが、それなら、はじめからそう言ってくれればいいものを、いらぬことを言って、ただでさえ弱っている人間を、よくするどころかさらに気落ちするようなことを言うのが医者だろうかと腹も立ちました。

今回、話術は、今の時代、医師に必要とされる重要な能力の1つだとつくづく思いました。
そして、その能力には、医師や病院によって、雲泥の差があることも実感しました。
患者を生かすも殺すもその医師の話し方一つにかかっている場合もありそうに思います。
まだまだ時間は掛かりそうですが、今は、一番苦しかっただろう父が、日毎、よくなっているのがなによりです。

posted by じゅうよっつ |20:10 | 考えごと |