2012年03月06日
この1年
もう1年経ったか、と思うと、時が経ったのがはやく感じるんですが、あの頃、新しく福島にやってきた方が、もう随分と昔からいるような気がするのは、やはり1年が長かったということなのかもしれません。 ありすぎるほど色々あったし、まだ現在形のものもあるし。 正直、この1年は、精神的にとても辛かったです。 当初は地震や原発事故そのものだけでしたが、やがて、それによって誰もの気持ちにささったとげが、いろんなところでささって別のとげを生んでいくのが目に見えてきて。 はじめは外国から驚嘆・賞賛されたようないわゆる”日本的”な、秩序と節度のある行動が表だっていましたけど、長い間のストレスにはやはり耐えきれずに、その下にあったエゴが姿を表してきたみたいに思えます、福島でも、県外でも。 人によるのはもちろんですけど、福島から距離が離れるほど、パニックの度合いが大きいように感じるのは、とても不思議です。 去年参加したシンポジウムで、韓国の研究者の方が、韓国でも放射線による影響が出るのではないかと、パニックになっていると話しておられましたが、それを日本人が聞くと、ちょっと苦笑いしてしまうのが、福島と県外の関係に似ているのかもしれません。 EUの、福島を含む11都県からの食品の輸入を規制する措置なんかもそんな感じでしょうか。 今でもとても共感して目を向けてくださっている方もおられるのはわかっていても、井上ひさしさんが書いた「吉里吉里人」という小説のように、福島も独立して、自分たちで作ったものを食べ、自分たちで生活していければ一番平穏に暮らせるかも、と思うほど、ああしろこうしろという圧力はかけるが、実際にこちらが救いを求めて手を出すと知らん顔の外野には、いつも傷つきます。 すべてを政治のせいにするのも、ようするに、人のせいにしていれば自分は逃れられるという心理なのかなと、ひねた考えも浮かびます。 そしてそうか、福島は必要ないのか、と。 具体的に思っていることは沢山あっても、ブログに書こうとしてもなかなか手が動きません。 日常の小さなとげから、ニュースなどで見るような大きなとげまで、ひたすら耐えるのみと、頭の中で何も思わない、考えられないように、音楽をかけまくっていた頃もありました。 普段結構ボケっとしている私にしては、珍しく神経質になってるかも、と自分でも思いますが、どうしようもない。 それにしちゃ、書いてたじゃん?と思われるかも。 でも、書くのも結構辛かったんです。 いままでと同じ感じで書きたいなと思って書くと、ほんとは違うのにと、ほかのブロガーさんとのギャップに落ち込むこともありました。 身を削る思い、というとオーバーかな。 それでも書かないと、という思いはありました。 これからも書いていきますが。 いま、福島に住んで、どう考えているかを伝えるのは、私を含めて福島の人間がやるべきことだと考えています。 同じ福島に住んでいたって、さまざまな思いや考えがあるはず。 ちょうど、学年末、新学期の頃だからか、いまの福島は、避難してくる人、避難する人、ちょっと見ると矛盾した2つの動きが同時に起こっています。 そして、福島県人と他の地域の皆さんとの間の意識だけでなく、避難している人と、残っている人の間にも、気持ちのズレが出てきているのは、嬉しくない事実です。 「逃げる」と言う言葉で避難する方のことを表現されることがあります。 はじめて聞いた時にはびっくりしました。 その言葉を使う人の気持ちには、もう避難先の福島県人は仲間じゃなくなってるのかも? まるでクスリの副作用のように、予想のつかないとげが、時間が経つに連れ、出てきているように思います。 綺麗ごとは程遠い、福島にいれば「絆」なんて言葉は、別の世界から満足してみている人たちの言葉だとしか思えません。 悲しくて、その言葉は使えません。 今日もボラ仲間と話していまいた。 彼女は、当初は放射線のことで落ち込んでいましたが、いまは、元の明るい性格にもどっていて、「もう何もこわくないね。根っこさえちゃんとしていれば、他のことはどうだってよくなってきた。」と話していました。 原発事故の風景を見てももう、涙もでないけど、津波で被災された海沿いを見るのは、どうにも忍びない、そんなことも話していました。 事故当初の病院の玄関は、マスクを付け防護服をきたお医者さんや職員が、ガイガーカウンターで患者さんの被曝程度を測定をしているという異様な光景でしたが、いまの病院は、震災前と変わらない老若男女の患者さんがみえている、どこの病院にもある普通の風景です。 もちろん、お腹の大きな”もうすぐお母さん”も、生まれたてで湯気が出てそうな可愛らしい赤ちゃんも、今も変わりなく来られてます。 福島は、生きてます。
posted by じゅうよっつ |21:12 | 考えごと |