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2009年06月10日

受け入れるということ

昔、ご近所だった女性はDVの被害者で、頭が痛いと病院に行くけどどこも悪くない、でもここが悪いからじゃないか、あそこかもと、思い当たって病院に行って検査を受けても異常なし、旦那さんはもちろん、そんな奥さんに理解を示すはずはありません。
でも、端で見ていて、頭が痛いという苦しさは、実際の頭痛はもとより、きっと誰かに心配して欲しい、大事に思って欲しいという心の渇きとでもいう風にも感じられました。

病院に来られる患者さんにも、同じようなことを感じることがあります。
たとえば実際にはそんなに歩行に困難はないのに、車いすであちこち移動を(たいていは無愛想に)頼まれる患者さんは、もしかして、私たちにケアされる気持ちを不器用に欲してらっしゃるのかなと、思います。
それは健康な人間の世界では“甘え”や”わがまま”にも見えるのですが、壊れそうなバランスの中で、救いを求めて手を伸ばしてらっしゃるようにも思えて、甘えるな!という怒りよりもむしろ悲しくなります。
実際、何度もお手伝いするうち、うち解けてくださり、「ありがとう」と声をかけられたり、「あの人の方が大変そうだから行ってあげて」と、他の方を心配する余裕が出てくることもあります。
たぶんそう言う思いが生まれたとき、やっとその方の枯渇した心は、少しだけ、満たされてきたんじゃないかと思います。

その人の気持ちを受け入れるべきか否かの判断基準は、周囲の人は、自分の経験や環境に照らし合わせて下すしかないんですけど、自分の気持ちがささくれ立っていると、往々にして周囲にも厳しくなってしまいます。
I'm OK, You are OKという言葉があって(実はこれは、よく見ていたアメリカのコメディ「ファミリータイズ」でお父さんがマイケルJフォックス扮するアレックスに勧めた本なんですけど)、自分のこともOKと思え、周りの人のこともOKと受け入れる、どちらか一方ではバランスがとれないんだそうです。
OKとは、100%是が非でもの肯定ではなく、大丈夫、いいんじゃない?それもありかもね、くらいでしょうか。
相手をOKと受け入れないと、相手も苦しみ、今度は逆の立場で、その人にとって”相手”となる自分もOKでなくなる、悪循環です。
自分から見ると、そんなこととはないぞと思われる事でも、一旦受け入れてみると、案外、ああそうだったんだと理解できることがあります。

なんだかまとまりが無くなりましたが、受け入れ、受け入れられるというのは、お互いに幸せになるための潤滑油みたいなものなんじゃないかなと、ボラをやりながら考えてます。

posted by じゅうよっつ |20:17 | 考えごと |