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2007年07月08日

フィールドの「役人」

26節


 24節のザスパ草津戦と26節の山形戦とでは、審判に際だった違いがありました。
 草津戦の審判は、審判の技術向上のために招かれたデンマーク出身の国際審判員ニコライ・フォルクアーツさん。むやみに試合を止めない、流れるような(決して“流すような”ではありません)レフリングで、サッカーのスピード感、スペクタクルが十分に堪能できる試合となりました。

 試合後、札幌の三浦監督も次のようにコメントしたそうです。
「最後に、今日のレフェリングに関しては、これまでよりも大きな違いを感じた。選手が苛立つことなくゲームを進めることができていた。そういう部分の違いを、ゲームを見ながら感じた」http://www.jsgoal.jp/news/00050000/00050643.html

 この試合の次に見た26節、厚別公園での対山形戦のレフリングが、いつものジャパンスタンダードだったので、なおさらフォルクアーツさんのレフリングが光りました。

 草津戦のフォルクアーツさんと26節の日本人審判を比べて思うことは、フォルクアーツさんがサッカーゲームというイベントの「PCO(Professional Congress Organizer)」であるのに対して、日本の審判はサッカー試合の「役人」だということ。

 フォルクアーツさんは選手にとってはもちろん、観客にとっても「良い試合」になるように試合をコントロールしようとしたのに対して、26節の日本人審判は試合から超然とし、客観中立を強調したいがために、ホームの雰囲気に流されないぞ、とあえてホームチームに厳しい笛を吹いているようでした。このような「逆ホームタウンデシジョン」は、この日ばかりではなく、Jリーグ全体に多いように思います。

 Jができてわずか15年です。なるのに長い月日かかるA級審判のかなりは、サッカーファンの一人としてチケットを買い求め、一人の観衆としてゲームを楽しんだ経験が乏しいじゃないでしょうか。

 また、日本のサッカーは学校体育から来ているので、先生が審判を務める機会が非常に多かった。そのために自然とグランドの中に、教師と生徒の関係が持ち込まれているようにも思います。

 こうしたことから、試合を観戦する観客を含めて試合をトータルにオーガナイズする意識が日本の審判の中には乏しい、と改めて思いました。


posted by hibari |23:57 | コンサドーレあれこれ | コメント(15) | トラックバック(1)

2007年07月08日

【第26節】奪われた主導権

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 札幌のシステマチックなゲーム運びを、各チームが研究してきて対策が確立しつつあるように思います。草津は、2列目から、キーパーとディフェンスの間にボールを放り込み、そこにFWが走り込むという作戦でのぞんできました。

 第2クール最終節となる山形戦。相手の4-4-2破りに対応して、札幌は志賀と大塚をボランチにし、カウェをサイドに出して、相手の2列目からの球出しを厳しくチェックして、ゾーンとゾーン間に良いボールを供給できないようにする布陣を取りました。

 立ち上がり、札幌としてはコンパクトに出来ていまし、悪い入り方じゃなかったと思います。失点までは比較的、新布陣は機能していたと思います。一方、芳賀・大塚の2ボランチでは、やはり攻めの迫力を欠き、2トップにロングで当てる以外に有効な攻め手がありません。そのため膠着した展開が続きました。

 一方、山形は、ゾーンディフェンスの弱点といわれる、ゾーンとゾーン間を徹底的についてきました。前半の失点は、志賀のミスもありますが、志賀から奪われたボールが、簡単にキーパーとの1対1になってしまったのは、ゾーンデフェンスの弱点もあったと思います。

 札幌も前半終了間際に同点に追いつきます。ダヴィへのロングフィードを、ダヴィが肩で絶妙なトラップを見せて(偶然?)、ディフェンダーを置き去りにして決めたもの。ロングボールをツートップにあたるという執拗に続けてきた攻撃がようやく実りました。

 後半、精彩の欠いた芳賀に代わって砂川を入れ、カウェをボランチに戻して攻撃への比重を高めますが、追加点が奪えない。バランスを欠くレフリングにはばまれ感もありました。そうこうするうちに次第にラインが間延びして、セカンドボールが奪え無くなってきました。

 後半に中山を下げて岡本賢明がリーグ戦デビューを飾り、砂川に変わって右サイドに入り、砂川がフォワードに入りました。岡本は投入された早々、ドカーンと抜かれて、トップの洗礼を受けました。

 いつもならば、時間とともに札幌が回転を上げ、相手が先に止まるというところでしたが、この試合では先に札幌の足が止まりはじめ、ラインが間延びして、セカンドボールが相手に奪われることが多くなっていきました。

 結果は引き分けで順当なところでと思います。もし延長があれば、Vゴール負けしていたのは札幌じゃなかったかと思いますね。

 札幌はそんなに変わっていないんですが、相手の研究が進み、その結果、これまで1-0で勝ち点3だったものが、1-1で勝ち点1になってきた。これここ数試合の傾向です。

 1-0で勝ち点を拾っていたときは、攻められ続けても、ゲーム全体の主導権は札幌にあったと思います。しかし、相手の札幌への研究が進むようになってからは、主導権を渡す時間が増えてきた。監督は、試合後のコメントで、変える必要がない、と言っていますけど、あの人のコメントは相手に対する作戦の一つなので、別なことを考えていそうな気もします。



posted by hibari |12:31 | 試合の感想 | コメント(2) | トラックバック(0)

2007年07月07日

夕暮

厚別公園の夕暮れ


これどこだと思いますか?
道東のどこかの高原みたいに見えるでしょ。
実は、厚別公園なんですよ。
今の季節の北海道は(住んでいながら思いますけど)本当に気持ちいいですね。
都会の、住宅街の真ん中の厚別公園でも、こんなに気持ちいいんです。
今日の試合の前日、席取り行ったときの一枚です。
後ほど観戦記などを


posted by hibari |23:13 | 写真館 | コメント(2) | トラックバック(1)

2007年07月05日

宏太をあたたかく迎えようよ

 新聞によれば、大宮のFWの吉原宏太が、札幌の練習に顔を見せたそうです。
http://hokkaido.nikkansports.com/soccer/jleague/consadole/p-hc-tp0-20070705-222437.html

 後半に向けて、補強がささやかれる中で、突然の来札は波紋を呼びました。

 ネットでは、2部落ちした札幌を見捨てて出て行った人、というネガティブな声も聞かれますが、僕は宏太はやっぱり心の中で札幌のことを思ってくれていたんだ、と嬉しくなりました。

 吉原宏太は、1996年のコンサドーレ札幌誕生とともに入団した高卒ルーキー。なんでも初芝橋本高校のエースとして、高校選手権でチームをベスト4に導き、本人も得点王になったもののの、Jクラブからはどこからも声がかからず、プロ絵の道をあきらめかけていたところに、コンサドーレから声がかかったといいます。

 当時はあんあり意識していませんでしたが、高卒ですぐにスタメンのFWって、なかなかないことですよね。この年はレギュラーとして27試合に出場し、7得点をあげています。当時のJFLのレベルは今のJ2よりは低かったとは言え、高卒ルーキーとしては結構な成績です。そして98年には、札幌の選手としては、はじめてフル代表に選ばれました。

 甘いマスクもあって、コンサドーレ札幌という北海道の歴史上はじめて誕生したプロチームのシンボルとして、全道的なアイドルとなりました。それだけに、札幌がj2に落ちて2年目にチームを去ると、こうした移籍が初めてで、誰もが慣れていないために、かわいさ余って憎さ百倍で、ずいぶんと非難を受けたものです。

 でも、降格したクラブの生え抜きエースは、1シーズンは、移籍せずに下部リーグの生活に耐えるという、その後の暗黙のルールを作ったように思います(ちなみにそのルールをはじめて破ったのが、札幌の山瀬!)。近年、このルールが破られ、降格と同時に移籍する選手が増えるのを見ると、札幌を見捨てて出て行ったんだというよりも、1年は残ってくれたんだ、と思いたい。

 札幌を出てから何年も経ちますけど、成績を見てもやはり札幌時代が最も輝いていた時代。プロにすくい上げてもらって、1年目からレギュラーにさせてもらい、代表まで上げさせてもらったのが札幌なんだから、当然、強い思いをもっていると思いますよ。

 そろそろ、温かく迎えてやってもいいんじゃないかな、と思います。

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 このことは強く訴えたくって、二重投稿になってしましましたが、
「コンサドーレ札幌インフォメーション」にも投稿しています。
 http://www.phoenix-c.or.jp/%7Ehiro/bin/yybbs/yybbs.cgi

posted by hibari |23:23 | コンサドーレあれこれ | コメント(7) | トラックバック(1)

2007年07月02日

コンサドーレへの道・第5回『Jリーグ開幕(1)』

 1993年のJリーグ開幕は、「突然、天から降ってきた」というコトバがぴったりでした。

 資料には、開幕の前年、92年9月から11月にかけて行われたナビスコカップ(ナビスコはJリーグよりも古い!)が大盛況で、これがJリーグの成功につながった、とあります。
 実際9月6日の開幕戦では、ヴェルディですら1万3000人の観客だったものが、11月26日の過川崎対清水の決勝では、国立競技場に5万6000人の観客を集めています。
 けれど、そのわずか3ヶ月前に閉幕したバルセロナ五輪でのサッカーの扱いは、前回、書いたとおりです。東京から遠く離れた北海道では、サッカーが盛り上がっているという実感はほとんどありませんでした。
 
 当時の私は今の2CH用語でいう「海外厨」だったんだと思います。当時、実際に私が情熱を傾けていたのが洋楽で、それなりの数のレコードやCDを持っていましたが、その中に日本のアーティストのものが1枚もないのが密やかな自慢だったほどです。

 マラドーナにきっかけに、サッカーを意識するようになったといっても、日本の国内リーグなんかまったく眼中になかったのです。カンプ・ノウのことは知っていても、読売と日産が、チャンピンを目指して激しく争っていたなんてまっく知りませんでした。そんなもんだといえば、そんなもんだったんです。

 それでも1993年を迎えると、日に日に世の中がJリーグにむかって高まりを見せ、日本中の多くの人と一緒に、気が付けば私も5月15日の「ベルディ川崎対横浜マリノス」の試合中継にチャンネルを合わせていました。
 その日から数年、まさにダムが決壊したような勢いで、日本中にサッカーがあふれたのです。


ps これを書くために、本棚にあった「Jリーグ・オフィシャルガイド1993年、サントリーシリーズ」という本を見ていて、とても面白かった。
 選手名鑑もついているんですけど、ヴェルディ川崎のサテライトに、富樫剛一、関浩二、石塚啓次、村田達也という人たちと並んで、西澤淳二という名前を見つけました。

19歳の西澤
19歳の西澤



posted by hibari |23:27 | コンサドーレへの道 | コメント(2) | トラックバック(1)

2007年07月01日

白い恋人サッカー場

白い恋人サッカー場


サテライト戦を見に、白い恋人サッカー場に行きました。
鹿島アントラーズ相手に 4対1 の圧勝。
石井のハットトリックと良いことずくめですが、
メンバー表を見ると、鹿島はサテライトというよりも、
アンダー20にオーバーエイジが数人(柳沢もいました)という構成でしたので、
レギュラーに近いメンバーで固めた札幌は勝って当たり前かな。
それにしてもすばらしく良い天気でした。
お客さんもたくさん入っていましたね。



posted by hibari |19:28 | 写真館 | コメント(6) | トラックバック(0)

2007年07月01日

コンサドーレへの道・第4回『バルセロナ・オリピック』

 ワールドカップイタリア大会が終わると、私ははっきりとサッカーを意識するようになっていました。

 そんな私でしたから、1992年のバルセロナ・オリンピックはすごく期待したんです。
 スペインのバルセロナは言わずと知れたFCバルセロナの本拠地で、90年のバルセロナ・オリンピックの当時のFCバルセロナは、名将クライフのもとロマーリオ、ストイチコフが活躍し、リーグ4連覇、チャンピオンズリーグ初制覇を果たした黄金時代だったんです。

 そしてオリンピックでも、FCバルセロナで主力を固めたスペイン代表は快進撃を続け、決勝まで勝ち進みました。
 日本が出てないとはいえ、さすがに開催国が出場する決勝ぐらいは放映するだろうと私は期待して放映を待ちました。雑誌の写真でしか見ることのできなかったカンプ・ノウの全容が見れる。バルセロナのファンの熱狂が見れると、期待したんです。

 ところがテレビはカンプ・ノウを無視しました。
 バルセロナのオリピックで、FCバルセロナのメンバーを中心としたスペイン代表がカンプ・ノウで決勝を行うというのに中継しなかった。オリンピック史上初めての金メダルに輝き、10万人が空前の興奮に包まれたというカンプ・ノウの決勝を、日本のテレビはまったっく無視したんですからね(私が見逃していたならばご免なさい)。

 その代わり日本のテレビは何を放映していたかというと、柔道、柔道、柔道、水泳、レスリング、陸上、そして柔道、柔道・・・。
 たぶん、1ヶ月にわたってバルセロナからオリンピックが放映されようとも、ほとんどの日本人は、スペインは闘牛とフラメンコの国という偏ったイメージを変えることはなかっただろうし、バルセロナには、オリンピックスタジアムよりも大きく立派なスタジアムがあり、そこを拠点とするチームは世界的な人気を誇っていることなど、知るよしもなかったろうと思います。

 放映のないことに愕然とし、また、マスコミはこうして日本国民の目からサッカーというスポーツを隠しているんだ、とつくづく思いました。

 よく中山峠を超えてニセコ方面に行くんですが、厚い雲に覆われた曇天の日などには、羊蹄山の巨大な山容がすっぽりと雲で隠されるじゃないですか。あんなでかい山が見事に隠れるもんだと感心して見ているんですけど、サッカーもそんな感じで数十年も隠され続けてきた。
 しかし世界にとってサッカーは巨大な存在です。日本のマスコミがいくら頑張ろうとも、いつまでも隠しきれるものではない。情報通信は発達し、世界は狭くなっていく。
 
 バルセロナ・オリピックの翌年に始まったJリーグの突然の熱狂の理由は、こうしたことだと思います。

posted by hibari |01:05 | コンサドーレへの道 | コメント(9) | トラックバック(1)

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