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2008年02月24日

コンサドーレへの道・第12回『コンサの誕生(1)ー『ボンボンの暴走』

 日本のJリーグバブルがはじけた1995年、札幌では「Jリーグ札幌ホームタウンチーム設立推進協議会」という団体が立ち上がり、「札幌にJを」というステッカーが街中に目立つようになりました。

 93年にJバブルが起こると、北海道サッカー協会でもJクラブを目指す目指す「Jリーグ特別委」を発足させたものの、道協会は実行力に欠け、結局、札幌よりも1年遅く取り組みを開始した仙台が先に運営会社を設立しました。

 こうした中で、JC(青年会議所)に集っていた若手経営者たちの間から、Jクラブを札幌に作ろうという運動が始まったのでした。この推進協議会の初代会長であった原田建設工業の原田信隆副社長は札幌JCの理事長で、広島県の広島JCのOBとゴルフをやっていたときに、「理事長として何をやるのか。Jリーグでも呼んだらどうか」と言われたことが、契機になったと言います。

 推進協議会の中心人物たちは、地元企業のボンボンで、サッカーに深くか関わった者たちはほとんどいませんでした。若者たちの盛り上がりに危うさを覚えた財界の長老たちは冷ややかな目線を送っていました。当初推進協議会の会長には北海道サッカー協会の理事の会長にお願いする予定だったものの見事に断られ、商工会議所の会長など財界の顔役にも参加を呼びかけたものの、断られています。

 「Jリーグ崩壊」という本が出たのはこの年。誰の目にもブームが下り坂にあったのは明らかだったのに、JCの青年たちは反発を受ければ受けるほど、Jクラブ設立に向けて突進していったようです。そしてここで生じた財界首脳と若手経営者たちとの溝は、後々までコンサドーレ札幌の経営に暗い影を落とします。

 一方、JC活動とは無縁な、一市民であった私はこのニュースを何か遠い外国の話でもしているかのように聞いていました。つい1,2年前まであれほど熱狂していたJです。しかし、ここが地方在住者の悲しいところ。全国的な話題のプロスポーツはテレビを通して触れるものであって、自分の生活圏にあるようなものではない、という感じが染みついていたのですね。Jリーグへの興味とか言う問題以上に、「札幌にJリーグを」という呼びかけ自体が、ピンと来ないものでした。

 サッカーよりも前に、札幌にプロ野球球団を誘致しようという運動もあったんですが、今と違って当時はプロ野球の12球団の牙城ははるかに強固、誰が見ても夢物語でした。私は、その運動と同じようなもの、つまりは夢物語、と思って見ていたんです。

 ところがJFLにいた東芝がサッカー部を切り離したいという話が札幌に伝わり、95年の後半からあれよあれよという間に、夢物語が現実の物語になっていきました。

posted by hibari |23:44 | コンサドーレへの道 | コメント(3) | トラックバック(1)