2008年02月14日
コンサドーレへの道・第9回『Jバブルの崩壊(2)ー『Jという違和感』
日本最初のプロサッカーリーグから、私を遠ざけたものは次第に大きくなっていった違和感だったと思います。 その違和感は、1993年のJリーグ開幕節、川崎対横浜の試合からありました。5万9626人の観客を集めたこの試合を、私はテレビで食い入るように見ました。中継のアナウンサーは、しきりに讀売が日産に対して連敗を続けていることを強調し、因縁の試合であることを印象づけました。 ここで私はアレレ・・と思ってしまったのです。その当時としては海外サッカー厨だった私にとって、何年も前に世界アマチュアサッカー大会(メキシコオリンピック)で3位になったことが一度だけあるという極東の後進国のアマチュアサッカーリーグなど存在しないも同然でした。そんなリーグでの連勝記録を語られても・・・という思いがありました。 何よりも私がJリーグに期待したのは、積もったばかりの新雪に初めて足跡を残すような、初々しさ、新鮮さだったのです。開幕に並んだ10チームはどれも横一線で、リーグが進むにつれて自分が思いを寄せられるチームが現れてくるはずだと、期待しました。 ところがオリジナルの10チームの中で、川崎と横浜、なかでも川崎・・・というか讀売は特別な存在らしいのです。こう聞くと、自分の関知しないところで特別な存在が作られ、押し付けられることに、私は大きな違和感を感じてしまいました。 確かにこの年の川崎は特別な存在でした。しかし、試合を観ても、NーBOX時代の磐田ほどの感心は沸きませんでした。何よりも、試合中に執拗に繰り返される讀売・讀売・讀売・・・の連呼がうざかった。 Jリーグが、ヴェルディ川崎と呼んでいるのに、讀売新聞だけは讀売ヴェルディと表記していました。これに対して川淵チェアマンがクレームを寄せると、渡辺という讀売新聞のお偉い人が出てきて、川淵を独裁者と決めつけました。 そしてこの渡辺という人は、このままではJリーグはダメになるとして、オーナー会議の開催を声高に主張しました。そして「俺はサッカーの選手は、カズとラモスしか知らないんだよな」と笑ったのです。 がく然としました。「俺は、時計台と雪まつりしか知らないが、このままでは札幌はダメになる。俺の言う通りにしろ」と言っているようなものです。 もちろん、川淵チェアマンは、渡辺という人の要求を突っぱねましたが、私にとってはどうでもいい日本リーグ時代の亡霊が次々と現れて自慢気にJリーグを語り始め、真っ白いキャンバスを期待していた私の思いは裏切られました。 そうして95頃になると、私はJリーグの試合中継をほとんど観なくなりました。要は“にわか”だったのですね。しかし、この頃札幌では、「Jリーグを札幌へ」というステッカーを見ることが多くなっていたのです。 (ようやく次回にコンサドーレ札幌の登場ですかね)
posted by hibari |01:25 | コンサドーレへの道 | コメント(4) | トラックバック(0)