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2020年05月05日

スポニチ曽田雄志のマイメモリーズ(2002年11月30日最終戦の広島戦)

 2002年は2シーズン守ったJ1から降格した年

 この試合は曽田が途中出場でコンサ日本人初ハットトリックした試合。

抜粋

「ファンの方から『ハットトリックの試合をみました』と、現役の時も引退後も声をかけられることが多い。日本人だとJ1クラブ初。ゲーム内容、ハットトリック、当時の札幌の状況もあって、自分も思い出深い。

 オーストラリアキャンプで鼻骨と頬の陥没骨折をした。鼻血は3日間止まらず、『もう1ミリ深かったら失明だった』と言われた。そこそこ使ってもらったけど、初めてDFやったり監督も代わったりで何もうまくいかない。4試合を残してJ2降格が決定。最終戦に向けては、次の年への意気込みというより、心の中では『来年クビになるのかな』と思っていた。
 相手の広島はこの試合にJ1残留がかかり、90分間での勝利が条件だった。前半終了間際から途中出場。1-1から後半に2点取られ、もう終わりだと思っていたら、自分のゴールで1点返せた。3-3の後半42分、セットプレーでマークしていた選手に決められたが、1分後、GKとの1対1を沈めて劇的に追いついた。

 迎えた延長前半。左からのクロスをヘディングシュート。Vゴールが決まった。J2に降格するチームとは思えない盛り上がりだったのを覚えている。
 クビになるかと思っていた中でも、常に練習は全力でやっていた。努力した成果は必ず出るんだなと思った試合だった。神様がいるんならプレゼントしてくれたんだと。

  シーズン中に全然タイプの違う監督にコロコロ代わり、クラブとして何がやりたいんだろうという気持ちはあった。哲さん(柱谷哲二監督)にDFをやれと言われ、イバンチェビッチ監督にはFWをやれと。練習でDFやれ、FWやれ…ではうまくなるはずがないと思った。成績も出せないから中途半端な選手だと思われる。サポーターからのブーイングも多く、苦しかった。

 札幌はまだ若いクラブで資金は潤沢ではなく、ビジョンも明確ではなかったと思う。監督交代のタイミングや人選を迷いながらやっていたのだろう。」

  この試合も覚えている。広島の残留がかかっていて、広島もいっしょに引きずりおろそうという気持ちでドームに向かった。
 最初は逆転されて突き放されて苦しい試合だったが、曽田の得点で勢いに乗った。相手GKが林に代わって相川のシュートがゴールした時に林のジャンプした足が相川ののど元に当たってドームが騒然となった試合ではなかったか。
 その時以来ドームで殺気のような雰囲気がを生じてどんどん盛り上がり曽田のハットトリックが出たような記憶がある。
 
 この年は柱谷の監督でスタートしてまったくダメで岡田監督の遺産を食いつぶしていった感じだった。この年からチームは成績も経営も迷走することになった。



               
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posted by 孔明 |19:05 | コンサドーレ の思い出 | コメント(3) | トラックバック(0)