コンサドーレ札幌サポーターズブログ

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2016年10月06日

小さい

漠然とこの単語を想起したのだな。

今いろいろな場所で起きているニュース素材を見ているとそう感じるもので。

国会にせよ、五輪・豊洲の問題がある都議会にせよ。
そこでのやりとり、また内容を見た時の気分、至るのが「小さい」。


国会議員というのは、少なくとも国のことを考えて行動するものだと思っていたのだが、突き詰めるとそうはなっていないようで。

一部の、ごく至近な範疇だけの幸せしか求めていない。
自己の満足のためには、今しか見てもおらず、他人や将来についての責任も考えずに無理筋でも進めればいいのだろうと突っ走る。

だもんだから、ちょっとでも幼児性を指摘されると、キレてしまうような国の代表をみてしまうと、その存在がまずは悲しく恥ずかしいということになってしまう。

大局観が重要視されるべきところが、実際は矮小化した中しか見ておらずとなれば、この先もひたすら暗い。


単純に自ら動く人は尊重するべきだとまずは考えるのだな。

どんな些細なことであったとしてもだ。

それを何もせず、安全な場所から非難する輩がいる。

思想面で相違があるのがごく自然なことだが、ちょっとでも自分と考えが違うのを見ただけで、馬鹿阿保と喚き散らし人格をも否定しかねないような表現しかできない高齢者を見ると軽蔑するしかない。

口だけ、ちょっと人と角度が違う表現をしただけで、さも偉くなったように勘違いしているのをみかけるとやりきれなくもある。

こういう姿も、所詮は一部の仲間内だけで通じる論理にしかならないとなれば、至るのはやはり「小さい」なのであろう。


日々仕事を進めていくうえで感じることを言えば、漫然と同じとことの繰り返しが面白いのだろうかというのがあって。

いやどんなに単純作業であったとしても、何か変えられないかの意識は持ち続けないと。

慢性的に、見たいものしか見ない、という姿勢が感じ取れると、こちらとしてはがっくりしてしまうのだな。

制限を設けた時点で成長は止まる。

結局器としても「小さい」で終わってしまうんだろうなと。


相変わらず疲れ果てている。

これは頭の中といえば大したことでもないレベルから常に何かしら考えているが故に、こんな感じになってしまっているのかね?

posted by akira37 |04:41 | その他 | コメント(0) | トラックバック(0)