2015年07月28日
対応力あるいは応用力>パターン的
毎日がボロボロであります。 ここに来て睡眠不足のツケが回ってきている感じで、少しでも補えないとなるとダメージが大きくなり、悪循環化してしまうようで。 夜中に何度も目が覚めては、最後の目覚めがよろしくなく、引きずって一日が経過し、夕方には完全にばててしまっている。 単純に暑さだけではなくて、もう立ち向かう気力すらないのは困ったところではあります。
さてタイトルにある部分、勘のいい人であれば察しがつくことではありまして。 そうありたい、あるいはそうなるべきことなのだろうと、ではあります。 いやあ讃岐戦にしても愛媛戦にしても、術中に嵌められた時にどう打開するかにかかってくるのだと。 相手はある意味その部分については長けているわけですから、そこを突破できないと中途半端なことでは変えられない。 勿論基本的な型は必要にしても、場面に応じて二の手三の手が打てないと変わっていけないのだろうとね。 勢いだけでは、勢いを失った時の無力感が計り知れなくなるので、それだけでは、となるのですな。
別段偉そうなことを言うつもりではなくて。 仕事上においても、常に自分の思う通りの展開にならないわけで。 そりゃ問題が発生した時に、自分にとって都合の良いような展開になれば楽だろうが、そうならない方が圧倒的に多い。 それを推測だけで固執した時の先にあるのは、傍目にも見苦しい姿でしかないのだから、少なくとも柔軟性は欲しいよなあ、ということになる。 見た目のアプローチが違ったとしても、パターン化されたものだけでは、変化に弱いだろうというのは、仕事でもスポーツでも共通することなのかね、と考えてもみるのだが。
加齢すれば、当然に体力は衰えていく。しかしそれでも存在価値が出てくるのは、経験値なのだろうと。 理想なのはやり方が上手く回らなくなった時の対応であろうと。 最終的には、どんなレベルの困難さでも対処できる能力だろうが、勿論言うのは簡単なのは百も承知ですがね。 しかしそこを超えていかなければ先がないことも実態であろうから、何としても踏ん張ってほしいのではありますよ。
posted by akira37 |04:41 | 雑記 | コメント(0) | トラックバック(0)