2008年06月11日
事件報道の姿勢に思う
幼少のころは、「交通事故で死亡」というのがあると、大変なことが起きた、という感覚があった。現在ではその感覚はかなり薄いと思う。交通事故による死亡は、昔に比べるとずっと減っているのだが、報道量としてはむしろ増えているから、あまり特別なこと、という意識がなくなってきているのだろう。 更に。 昔は殺人事件、というとそれこそ大変なことであったのだが、現在は先述の交通事故程度の感覚になりつつある。 最近の殺人事件と言えば、「親が子を」とか「子が親を」とか「兄弟を」というケースが増えていて、毎日とまで言わないまでも、少なくとも週に数回は目にすることになる。 故に感覚としては、本来大変なことなのに、「またか」みたいになってしまうのは、結構恐ろしいのではあるのだが。
先の日曜日に秋葉原でとんでもないことがあった。 今更ここで詳細を記するものではない。 被害者に対しては、ただただ哀悼の意を表するよりないのだが、この事件に関する報道を見ていると、どうにも違うじゃあないか、というが改めて思い起こされてしまったので、今日書いているのだが。 常日頃、何かあると、「識者の声(だいたい識者って何を根拠に決めているの?)」」とか「街の声」みたいのがあるのだが、これはいらない。 こんなのは報道する側の意思表示からの逃げではないのかと考えるし、時間の無駄である。 また亡くなられた方に対して、どうして無用の追求をするのか。「あの人は良い人だった」的な部分は、近親者の間で語り継げばいいのであって、未知の我々一般人には必要のないものである。それを得意げにやられるのは、故人に対して失礼だという感覚がないのが、結構恐ろしい。まるでその手法が当然だと言わんばかりなのは、困ったものである。 この手のことがあったときは、単純に事実だけを報道して、余計なことで深入りしない方が懸命だと考えるのですが、いかがでしょう。 報道過多が、かえって悪影響にもなりかねない、とは考えないのでしょうねえ・・・。
身内間の事件にしても今回の事件にしても、心情は本人にしか判らないものである。 周囲が判ったような気分になって、愚にもつかない結論を出すのだけは止めてほしい。
posted by akira37 |07:26 | その他 | コメント(0) | トラックバック(0)