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2008年03月02日

村田達哉

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父「村田って、覚えているか?」、上の娘「村にムラムラの村田だよね」。先日、HFCから「強化部スカウト担当に就任!」の発表があった日、父娘でそんな会話を交わしました。「村にムラムラ」は当時のダンマクにあったフレーズでしたっけ、最近は勉強が忙しいとかでつれない娘もよく覚えておりました。

村田は読売クラブ-V川崎(現東京V)を経て、出場機会を求めて1995年にコンサドーレの前身の東芝に入団。コンサドーレになった96年から2000年限りで退団するまで、主に左サイドバックで活躍しました。確か東芝時代を知る選手としては、最後まで残った選手ではなかったでしょうか。私は生観戦では見たことがなく、テレビ観戦だけですが、決して技巧的なタイプではないものの時折見せるオーバーラップでわくわくさせ、闘志あふれるプレーでサポを魅了する選手だったように記憶しています。明るい性格で何よりサポのことを思ってくれる選手でもあり、サポから愛されました。「白い恋人」のCMでも演歌歌手風の和服姿で登場し、アイドルのコータに対抗して、笑いも取れる選手でした。正式な退団発表の前だったと思いますが、2000年12月3日に室蘭で行われた天皇杯2回戦で試合後、スタンドを回って握手に歩き、サポから胴上げされる映像をテレビで見て泣けてきました。退団時に胴上げされた選手はほかにはいないのではないでしょうか。

さて、コンサでのリーグ戦出場記録はJFL54試合4得点、Jリーグ18試合1得点、J2で37試合無得点。退団後は出場機会を求めて仙台、大宮を歩き、04年限りで現役を引退しました。その後、イタリアのキエーボ・ベローナの育成部コーチを務め、指導者の道を歩んでいましたが、本人は確か「いつか札幌に戻って来る」と語っていたので、こういう形でコンサに戻ってくるとは本当に驚き、うれしく思いました。元戦士たちがスタッフとして帰ってくるのは、チームとしての成熟を図る意味でも大歓迎です。イタリアでの経験や人脈をスタッフとして生かしてほしいものです。それにしても、HFCオフィシャルホームページの中の人もよほどうれしかったのでしょうか、感嘆符「!」付きのニュースを初めて見た気がします。

写真のカードは98年のJカードです。仙台移籍後にカードが多数出ています。


posted by papa12 |10:36 | 思い出の選手 | コメント(5) |

2008年02月02日

市村篤司

恵庭市出身の市村篤司は2003年にコンサドーレに入団したMFです。北海高校時代は主にボランチとして活躍しました。02年10月に厚別競技場で行われた全国高校選手権大会道予選は北海対室蘭大谷の顔合わせ。休日で晴天だったので急きょ自転車で厚別へ向かい、観戦しました。その時は市村という名前さえ知らなかったのですが、中盤で攻守の要として活躍していた選手が市村で、確かクロスバーをたたく惜しいシュートも放ちましたが、残念ながら室蘭大谷に敗れてしまいました。そういえば、この試合には北海の先輩である山瀬が観戦に来ていましたね。その1、2週間後にコンサドーレ入団が発表され、「ああ、あの選手か」と驚いたものです。

J2に落ちた03年、ジョアン・カルロス監督の下、第14節の水戸戦で途中交代でデビューしたのを皮切りに、5試合に出場(無得点)、主に攻撃的なMFで起用されました。一番記憶に残るのがアクションサッカーを掲げる柳下監督が就任した翌04年3月の開幕戦、札幌ドームでの甲府戦です。2-1とリードした後に途中出場。終盤にGK藤ヶ谷が家本主審により退場とされ、数的不利となったなかで、市村がゴール前へドリブルで仕掛けたところ、ボールを奪われ、それがつながれてロスタイム同点弾の起点となってしまったのです。試合後に本人は怒られたそうですが、果敢に攻め上がる姿をすがすがしく思いました。その後、この悔しさを4月の第6節、横浜FC戦で初得点を決めて、はらしています。記憶が定かではありませんが、確か開幕戦と同じようにサイドから中央へ切れ込んでミドルシュートをたたき込んだように覚えています。結局、この年は先発、交代合わせて34試合に出場、左右両サイドなどで活躍しましたが、シーズン後に戦力外となってしまい、驚きました。

翌05年は九州リーグのロッソ熊本(現ロアッソ熊本)、06年と昨年は昇格したJFLで戦いました。今季からJ2に昇格し、Jリーガーとして復活します。移籍後のプレーはまったく見ていないのですが、ぜひスカパーで勇姿を見てみようと思っています。

posted by papa12 |23:06 | 思い出の選手 | コメント(6) |

2008年01月12日

岡田佑樹

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1月8日、MF岡田佑樹のJFLのFC栃木への移籍が発表されました。昨季限りで戦力外となっていました。いよいよ岡田がチームを去るのとかと思うと、ちょっぴり寂しくなりました。

岡田は2003年、J2に落ちたコンサドーレに入団しました。前年、静岡県の名門・藤枝東高を卒業したものの、大学受験に失敗。一応、中央防犯藤枝サッカークラブに所属しながら、大学目指して浪人中だったようで、03年から就任した城福敬強化部長が高校時代から着目していたそうです。ポジションは主に4バックなら右サイドバック、3バックなら右ウイングバック。持ち味はスピードを生かしたドリブルで、攻撃参加する姿はまさに突貫小僧。岡田が攻め上がると、ワクワクしました。ただし、細身の軽量級なので、屈強な相手DFにかかると、吹っ飛ばされたりもしましたね。デビューした03年の7月2日、札幌ドームでの大宮戦では初ゴールを決め、とにかくうれしくて仕方がないと、いつまでも喜んでいたのを思い出します。04年からは背番号2。得点はこの後、05年に2点挙げただけですが、ほかにドリブルでペナルティーエリアまで切れ込んでファウルを誘い、PKを得たことがありました。難点は守備面で、J2出場記録は03年に16試合、04年26試合、05年38試合とほぼ主力を務めましたが、06年から2シーズンはついに1試合も出場できませんでした。それでも昨年は天皇杯3回戦に右サイドバックで出場、見せ場はあまりありませんでしたが、久々に元気な姿を見ることができました。

私にとっては砂川とともに生涯初めてサインをもらった選手でした。ちょっとテレながら小旗に書いてくれたことをつい昨日のことのように覚えています。写真の06年のJカードにサインしてもらった時も、この年は出場できずに黙々と練習した後に声をかけると、あの笑顔でサインしてくれました。女性陣に人気が高い選手でしたが、いつもまじめにファンサービスをしていたのも人気の一因でしょう。

移籍先の栃木FCはあの柱谷幸一監督の下、積極的に元Jリーガーを補強して、J2昇格を本気で狙っています。まだ24歳と若いのですから、チームの昇格に貢献して、再びJ2のピッチに戻ってくることを祈っています。


posted by papa12 |20:43 | 思い出の選手 | コメント(4) |

2007年12月17日

大森健作

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12月2日、J2徳島に所属する大森健作が引退を発表しました。健作といえば、前回のJ1昇格を知るサポにとって忘れられない選手でしょう。2000年、2年目のJ2に挑む岡田武史監督に誘われ、京都から移籍。背番号6で、主に3バックの左ストッパーとして活躍しました。堅実な守備が売り物でしたが、時折見せるオーバーラップは彼の代名詞で、確かアパレル業者と組んでそんなブランドのTシャツを売り出したりしましたね。コンサでは珍しく華のある選手で、おしゃれなうえ、しゃべりも面白く、テレビに出演するといえば、健作が多かったように思います。いち早く茶髪にしていて、服装も格好良かったです。ファンサービスも熱心にこなし、サポの人気が高かったですね。コンサでの出場記録はJ2の00年が38試合、J1の01年が29試合、同じく02年29試合、J2に落ちた03年は故障もあり14試合にとどまり、翌04年は13試合に出た後、途中でJ1のC大阪に移籍しました。03年からコンサ史上初の複数年契約(2年)を結んだのも、ニュースになりました。04年限りでコンサから戦力外となり、05年からはJ2に昇格した徳島に所属しましたが、同年は24試合、翌06年18試合と故障もあって出場試合数が減り、今季は出場していなかったようです。

J1、J2を通じて生涯唯一のゴールが2000年7月29日の厚別。J1昇格争いのライバル、宿敵・浦和に先制を許すも、田渕龍二のミドルで1-1の同点。後半41分、健作は相手パスをカットして、相手DFもかわして自らゴール左に持ち込み、左足で見事にゴール。私はテレビ観戦でしたが、絶叫したことをよく覚えています。おそらく前回の昇格を語るときに、今回の愛媛戦の西のゴールと同じように、サポの間で長く語り継がれるゴールだったと思います。

徳島のホームページによると、「サッカーには携わっていきたい」と語っていますが、今後の進路は未定のようです。コンサでもサポから愛された健作よ、お疲れ様でした。今後の人生に幸多かれと祈っています。

写真のカードは上段がJカード、下段左2枚がカルビー、中央がイレブンスターズ、右2枚がパーフェクトイレブンです。


posted by papa12 |16:34 | 思い出の選手 | コメント(4) |

2007年07月16日

中尾康二

最近、チームのイエローカードが増えています(ジャッジの問題もありましたが)。昇格がかかる終盤戦に向けて、無用なイエローやレッドは極力避けたいものです。イエローカードでいつも思い出すのが中尾康二です。四日市中央工高を卒業して当時J2のコンサドーレに入団。主にボランチや右サイドなどをこなす、守備的なMF、DFの選手でした。その年は出場1試合、J1に上がった翌01年は3試合出場にとどまり、この年の11月からブラジルへ短期留学に赴きましたが、帰国直前の翌02年1月に試合中に骨折してしまいます。出場機会のなかった02年は途中で当時J2の横浜FCにレンタル移籍、7試合に出場しました。翌年は復帰し、ちなみにこれは同時期に福岡から復帰した河村優とともに、レンタルからの出戻り第1号だったようです。03年はJ2で24試合、そして運命の04年は背番号10を背負って20試合に出場した後、8月にあの事件で新居辰基とともに解雇されました。

プレースタイルは決してうまい選手ではありませんが、豊富な運動量でガツガツと相手の攻撃の芽をつぶす役割を担いました。ただ、やや雑というか、接触プレーで相手を止めることが多く、イエローカードコレクターといわれるほど、しょっちゅうカードをもらい、退場させられたことも少なくありません。技術不足によるラフプレーはほめられたものではありませんが、あえて擁護すれば、もっと接触プレーに寛容な欧州リーグならこんなにカードをもらうこともないでしょうし、どうも審判にも偏見というか、先入観で見られていた気がします。あの事件のことはかばうことができませんが。

ひたむきな武骨なプレーぶりはわが家では人気で、イエローをもらってもどこか憎めないキャラクターでした。とりわけカミさんは佐藤洋平がいなくなってからは中尾に期待していたようです。確か04年1月のキックオフイベントで上の娘がサインをもらい、その時のサインと写真はわが家の宝物としてしまってあります。

解雇後はFC静岡を経て、06年からFC岐阜に所属。FC岐阜は今季、JFLで4位以内に入れば、J2に昇格します(現在3位)。コンサドーレはJ1に昇格するため、来季、戦うことはないでしょうが、Jリーガーに復帰した中尾をまた見たいと思っています。

残念ながらトレカは出ていないようです。

posted by papa12 |11:06 | 思い出の選手 | コメント(5) |

2007年03月26日

平間智和

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サッカー素人の中年おじさんにとって、記憶に残る選手というのはゴールを決めるなど目立つ選手、活躍した選手です。あまり活躍できなかったのに、なぜか鮮明な記憶に残っている選手の1人がMF平間智和です。横浜Mでデビューし、山形や仙台でJ2を経験、いったん横浜Mに戻ってから2002年にコンサへ来ました。実は入団前は全く知らない選手でした。コンサでもJ1だった02年に15試合出場、無得点、J2に落ちた03年も8試合出場、無得点と、活躍したとはいいがたい成績でコンサを去りました。しかし、そんな彼ですが、練習試合などではものすごい活躍で「白恋のセレソン」「宮の沢の帝王」などと呼ばれていたようです。その実力の片鱗を見たのが忘れもしない02年9月29日の札幌ドームでのジュビロ磐田戦。先発した平間はキレキレで、ドリブルで切り込んで、当時J1最強だった磐田のDF陣をずたずたにしました。そして放った強烈なシュートは惜しくもクロスバーか、ポストに阻まれましたが、磐田側は間違いなく冷や汗を流したプレーでした。「あのジュビロをきりきり舞いにさせている」と、生で観戦して本当に興奮したシーンでした。結局、平間は電池が切れ、後半に交代。試合もVゴール負けしました(まだ磐田には公式戦未勝利です)。それともう一つ、記憶に残るのは03年4月9日、アウェイの大宮戦。開始早々に1点先制され、敗色濃厚の試合。途中から出場した平間は後半41分、左サイドから鋭いクロス。年代別日本代表のGK川島永嗣をして前に弾くのが精いっぱいで、詰めていたウィルが難なくゴール。引き分けに持ち込む価値あるアシストでした。一部の掲示板では「あれはGKが捕れない魔球だ」などと盛り上がったのを覚えています。あと、どの試合か忘れましたが、厚別の試合で、ペナルティーエリアの左側で後ろに相手DFを背負って受けたパスをO脚でスルー、左サイドを駆け上がった和波が抜け出しフリーでボールを得ましたが、残念ながらオフサイド。忍者・平間の名を高めました。出場時間が少ない割に、意外なほどプレーが印象に残っています。

コンサを退団した後、04年にJ1の新潟で1試合のみ出場。05年にJFLのFCホリコシ、06年から故郷に戻り、JFLのソニー仙台に所属。今年で30歳。自分で納得いくまで現役で頑張ってほしいと願っています。

写真の左はJカード、右はイレブンスターズです。


posted by papa12 |20:15 | 思い出の選手 | コメント(4) |

2007年03月16日

田渕龍二

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「龍ちゃん」と呼ばれ、サポに愛された背番号2番が田渕龍二でした。大塚製薬(徳島ヴォルティスの前身)から1997年に入団、「2」を6年間にわたって背負い続けました。ポジションは右サイドバック。地味な存在でしたが、決してさぼらない堅実な守備でチームに貢献しました。自ら目立とうとはせず、「寡黙な職人」といったタイプでした。ついつい攻撃の方に目が行くサッカー素人の私にはあまり印象に残る選手ではありませんでしたが、彼が主役になった試合がありました。J2の2年目の岡田コンサドーレが降格してきた浦和レッズと対戦した2000年7月29日の厚別。私はテレビ観戦だったのですが、テレビでこれほど興奮した試合はそう多くありません。前半にクビツァ(コンサと相性がいいのか、随分決められた記憶があります)に先制を許しましたが、後半18分、エメルソンからのパスを受けた田渕が相手DFをかわし、右45度から見事なミドルシュート、同点に追いつきました。意外な人物のゴールに思わずバンザイを叫びました。そして後半41分には左サイドをやはりDFの大森健作が持ち上がり、逆転弾をたたき込み、テレビの前で飛び上がって喜んだのを覚えています。J2優勝、J1昇格を決定づけた大一番だったと今でも思っています。

その田渕も2002年シーズン限りで戦力外となり、いったん現役を引退。ところが、翌03年のシーズン開幕後、右サイドバックが足りなくなった当時J1の神戸からオファーがあり、チームがJ2に降格する中、1人J1昇格を果たしたのでした。結局、この年限りで引退。出身地の徳島県に戻って自動車教習所の教官をしながらアマチュアチームに所属、昨年には県代表で国体に出場したそうです。

コンサ時代は口が重い、寡黙なイメージでしたが、昨年10月21日に札幌ドームで行われた10周年感謝デーのサンクスゲームに出場した際はインタビューに饒舌に話すのにビックリしました。徳島ヴォルティスがJ2入りした05年以降、地元テレビ局で解説者を務めたりしているそうなので、堂に入ったものなのでしょう。明日17日にアウェイで行われる徳島戦でスカパーの解説者を務めてくれます。田渕の解説を聞くのは初めてですので、今から楽しみです。もちろんコンサも連勝を飾ってくれるものと期待しています。

写真のカードは上段と下段左端はJカード、下段の残り2枚はイレブンスターズです。


posted by papa12 |21:58 | 思い出の選手 | コメント(7) |

2007年02月04日

佐藤洋平



コンサドーレで守護神といえば、私が思い浮かべるのは佐藤洋平です。ディドも好きでしたが、なにせ生では2試合しか観戦しておらず、熱心に応援し始めたときにゴールマウスを守っていたのが洋平でした。あの鹿島アントラーズで正キーパーを務めた後、コンサには1999年から2003年半ばまで所属。J2で79試合、J1で56試合に出場しました。とりわけJ1昇格を決めた2000年シーズンと翌01年のJ1では相手FWとの1対1のピンチを神がかりのセービングで何度も防ぎ、J1昇格と残留に大きく貢献しました。寡黙ながら、気迫のこもったプレーが見ていた者にも確かに伝わりました。強いハートがあったと思います。文字通り「神」として堅守速攻のチームを支えました。しかし、02年は守備が崩壊し、自身のパフォーマンスもややダウンしたでしょうか。翌03年には藤ヶ谷がGKに起用されることが増え、シーズン途中の9月にジュビロ磐田に移籍してしまいました。この年、初めてキャプテンを務めたのですが、ジョアン・カルロス監督に選手を代表して意見したため対立したとも言われていました。磐田ではこの年、リーグ戦に出場こそなかったのですが、天皇杯で大ブレイク。5試合に出場し、見事、天皇杯を獲得し、柳下正明監督の胴上げに貢献し、GKに恵まれなかった磐田サポの信頼を勝ち取り、翌年には正GKになりました。

実はカミさんが大の洋平ファンでした。偶然、誕生日が同じ11月22日(何歳上になるかはヒミツだそうです)。今思えば磐田への移籍直前の03年夏、清田区の白旗山での練習を佐藤尽ファンの上の娘と見学に行き、カミさんは洋平と2ショットで撮影し、今も宝物として台所に飾ってあります。背の低いカミさんは洋平の肩の高さほどしかなく、残念ながら目をつぶってしまったのが玉にキズですが。

その洋平が今シーズン限りの引退を表明したそうです。最近は川口能活に正GKの座を奪われているとはいえ、まだ34歳。体力よりも、経験がものを言うGKならまだまだできるとも思いますが、こればかりは本人が決めることですので、悔いの残らない1年となるよう完全燃焼してほしいと願うばかりです。コンサドーレには今季、草津で昨季全試合出場した高木貴弘が加わり、林卓人と佐藤優也と正GK争いを演じそうですが、まだ守護神として安心して見ていられる存在はいません。いっそうの奮起を期待しています。

写真のカードは上段がJカード、中段と下段左端がカルビー、下段左から2、3枚目はパーフェクトイレブン、右2枚はイレブンスターズです。


posted by papa12 |18:02 | 思い出の選手 | コメント(4) |

2006年12月16日

堀井岳也



先日、デビューした古巣であり、現役最後のチームとなった甲府から戦力外となり、引退を発表しました。岳也といえば、なんといっても思い出すのは2001年9月15日、札幌ドームでの清水戦のゴールでしょう。シーズン半ばで山形から移籍したばかり。それまで私はまったく知らない選手でした。このシーズン、J1に昇格した岡田コンサドーレは堅守速攻を武器に健闘しますが、いかんせん、勝ちきれずに追いつかれ逆転負けを喫することが多かった年です。この清水戦もアダウトとウィルの得点で2-1とリードしながら、ロスタイムに失点し、延長戦に。ホーム側でB自由席と上の娘と観戦した私も「またやられるのでは…」と心配していました。ところが、79分に途中交代でJ1デビューを果たした岳也は相手ゴール前中央に張ると、大森からのクロスにうまく合わせてVゴールを決めてくれたのでした。もっとも、アウェイ側のゴールでの出来事だったので、正直、誰がどう決めたのかは後で映像を見て確認するまでまったく分からなかったのですが、とにかくうれしくて娘らと飛び上がって喜んだことをよく覚えています。

J1のこの年は結局、6試合1得点。02年はJ1で14試合1得点。J2の03年は41試合8得点と確かチーム得点王の活躍でしたが、04年は33試合1得点と不振。気合が入った05年は体がキレていて「今年はやってくれそうだ」と思っていたところ、5月7日の山形戦で無念の骨折、シーズン終盤に復帰しますが、11試合2得点に終わりました。FWとしては器用なタイプではありませんでした。とにかく裏を狙って走る一瞬のスピードが売り物ですが、よくオフサイドにかかりました。無駄走りをいとわず、前線で執拗に相手ボールを追いかける魂のチェイシングが魅力でしたが、オフサイドを取られたり、相手DFとの競り合いでファウルを取られると、ふて腐れたような態度を示すのが玉にキズでした。それでも、とにかくがむしゃらに頑張る、ガッツあふれる姿が好きでした。

05年シーズン終了後にコンサを戦力外となると、何とJ1に昇格する甲府へ移籍。06年、16試合1得点で最後のシーズンを終えました。来季からは出身地でもある甲府で育成スタッフとなるそうです。ぜひあの魂というか、ガッツのある選手の育成に努めてほしいと願っています。今のコンサ選手たちにも見習ってほしい点があるように思います。

写真のカードはすべてJカード。上段左が2000年、中央が01年、右が04年(コンサで唯一のカードのようです)。下段は06年のチームエディションです。


posted by papa12 |15:32 | 思い出の選手 | コメント(11) |

2006年12月01日

清野智秋



本日、HFCから3選手の契約満了(戦力外)が発表されました。来季は緊縮財政ということで、大なたが振るわれるかと心配していただけに、思ったより少なかったというところでしょうか。3選手ともまだ若いので、現役を続けるなら新天地で頑張ってほしいと願っています。皆さんがコンサに残した足跡は決して忘れません。

3選手のなかで、やはり一番記憶に残る選手が3シーズンいたFW清野智秋です。2000年にあのジュビロ磐田に入団。翌01年にJリーグデビュー、あの磐田でJ1に2試合出場しています。しかし、02年途中で生活態度の問題(借金?)だとかで解雇されたそうです。柳下監督が就任した04年、東海リーグの静岡FCにいるところをおそらく柳下監督が呼んで入団しました。ややFWにしては体の線が細く、足が速いとか、ドリブルがうまいとか、ヘディングに強いとか、これといった武器がわかりにくい選手でしたが、逆に言えば、どれもこれもそれなりにこなし、柳下監督が言うように「シュートがうまい」タイプでした。この年、J2で44試合全試合に出場、チームの全得点30点のうち9点を挙げました。05年は長く不振が続きましたが、第3クールの終わりから第4クールにかけて爆発。終わってみれば28試合で10得点の活躍でした。ところが、今季はほとんど出場さえできません。どうしたのかなと思っているうちに、10月26日から古巣の静岡FCへレンタル移籍で出されたのでした。

思い出すゴールは05年10月22日、函館千代台での山形戦。後半開始直後、砂川からの浮き球のパスから決勝点となるゴールを決めたのは忘れられません。降りしきる雨のなか、びしょぬれになりながら函館まで来て良かったと思ったものです。そして同年11月19日、札幌ドームでの京都戦。この年、ぶっちぎりでJ1昇格を果たす京都を相手にハットトリック。最後に追いつかれて引き分けに終わりましたが、FW清野のワンマンショーのようでした。

今となってはこんなにシュート力があるのに、なぜ? と思わずにいられません。これほど浮き沈み、むらっ気があるのは、もしかすると、メンタルの問題なのかもしれませんが、本当に惜しい選手だと思います。

カードは左が磐田時代の01年Jカード、右は05年のJカードです。


posted by papa12 |16:51 | 思い出の選手 | コメント(4) |