カレンダー

プロフィール

作者の雁来 萌(かりき もえ)は、休日になると弁当と単語帳を持参して、札幌市東区にある「北海道コンサドーレ札幌・東雁来グラウンド」(通称:カリキ)で過ごしています。 コンサドーレの次代を担う(かも知れない)若者達が、しゃかりきにボールを追っている姿を眺めて癒されています。 性別:非公開 年令:非公開 特技:非行かい? 職業:占い師、トイレ評論家 住居:熊が出没する札幌市中央区 過去記事のリストを「記事一覧」カテゴリに載せています。 コメント欄に「今後の投稿予定」を記してあり、随時更新します。 オフィシャルブログ内であれば、このブログをリンク集に加えるのはご自由で、問い合わせも不要です。 深夜・早朝のコメント投稿はご遠慮下さい。

最新のエントリー

月別アーカイブ

リンク集

カテゴリー

コメント

検索

松浦武四郎ゆかりのピエロ

2012年02月11日

幕末に蝦夷地を探検して詳細な報告書を書いたり、「北海道」という名前を提唱するなどした、松浦武四郎(1818~1888年)のことはご存じだろうと思いますが、今日は彼に縁のある木彫作品を紹介します。

武四郎本人が彫った作品ならば自慢も出来るだろうけど、ちょっと遠回しに縁があるという程度の話ですから、ガッカリ(というか叱責)しないで下さい。


 
この木彫りレリーフは、弟子屈町屈斜路の磯里博巳(いそりひろみ)さんの作品です。
悲しきピエロ
横幅は15cmくらい、題材はピエロで、実は黒い目と涙の部分は裏まで刳り抜かれています。

お店の説明には「磯里ひろみ」としか書いてなくて、名前と作風とから「女性の木彫り作家がいるものなのか?・・まぁ、仏像を彫る女性もいるくらいだから不思議じゃないしな・・」と考えた程度で、それ以上は調べませんでした。
自分としては、この素晴らしい作品を入手できただけで満足でしたから。

 
下から見ると、これだけの厚みがありますが、
見上げてごらん
顔の部分を彫り上げてから台座に貼り付けたのではなくて、厚い板から彫り下げて台座を残してあるのです。

日付は '91.8.28 と刻まれており、裏には 1994.7.15 に道の駅「しらぬか恋問館」で購入したと、(自分で)書いてあります。結構な値段だったんですが、それなりの価値があります。

タイトルは「○風」と彫ってあるらしいけど、残念ながら「○」の部分が何の字なのか判読できません。
いずれ屈斜路のお店を訪れる機会があったら、本人に尋ねてみようかと。

裏から見ると、穴を彫り下げて表面の目と涙まで貫通しているのが分かります。
外界を見通す
トンネル工事の中ほどで食い違いが生じたり、トンネルのつもりが海底をぶち抜いてしまったりしないように、見当となる十字線を引いておいて慎重に彫り進んだようです。


芸術鑑賞はこれくらいにして、これがなんで松浦武四郎と関係があるの? という本題に移ります。(以下の事実を知ったのは近年になってからなんだけど)

ほとんどの探検に共通しますが、探検家が自分一人で新発見などを成し遂げるのは難しいもので、現地のガイドやポーターなどのサポートが必要です。
松浦武四郎の場合、現地のガイドといえばアイヌ民族でした。

「探検だ」とか「新発見だ」とか言ったところで、よそ者の訪問者にとっては「探検」や「発見」であったとしても、現地人にすれば「昔から知ってたこと」に過ぎない場合がほとんどですが・・。

安政5年(1858年)に武四郎が幕命を受けて6回目の蝦夷地調査を行った道中で、仰せつかったのか買って出たのかはともかく屈斜路湖へ舟を漕ぎ出す時に水先案内を務めたのが、当時の屈斜路コタンに住んでいた「イソリツカラ」という名のアイヌ人で、武四郎が記した日誌にその名が載っているそうです。

 
江戸時代以前から、和人はアイヌ人を呼ぶ時にアイヌの実名だと呼び難いから、和人風の名前で呼んでいました。
例えば「カリキ」というアイヌ名だったら「柿ヱ門」などと呼び替え、「モエ」だったら「茂作」などと呼び替えたりしました。

明治になって和人はアイヌ民族を同化させる政策を取り、その一環として和人風の姓名を名乗らせて戸籍を作ることとし、アイヌ名が「イソリツカラ」だったから漢字で「磯里主税」という名前を当て(られ)たのでしょう。

時代が激動の昭和から平成に変わり、20年前に彼の曾孫が木彫りの作品を作って、その作品が旅行中の私に気に入られて買われた、という巡り合わせなのです。
これもひとえに、私の審美眼が成せる導きなのでしょう。え?

2008年は松浦武四郎の生誕190年(および没後120年、6回目の蝦夷地調査から150年)に当たり、出身地の三重県松坂市ではその記念事業が催されましたが(参考:松浦武四郎記念館)、蝦夷地でガイドを務めたイソリツカラの子孫を代表して、磯里博巳さんが招かれました。
逆に武四郎の足跡を訪ねる見学ツアーが、北海道の各地を巡ったんだとか。


アイヌ民族は昔から熊の木彫りを作っていた訳ではなくて、あれは日本人農家の冬期間の副業として始まったのです。→詳しくはこちら

アイヌは狩猟や畑作や調理などの生活上の必要から木彫りが得意だった訳で、ならば日本人もすなる熊の木彫りも作ってみようかと、器用さを生かして(神と崇める)熊の木彫りを作るようになっただけの話です。

近年の作であるイタ(盆):30cm×24cm
イタ
裏に「藤谷作」と彫られているので、二風谷の藤谷憲幸さん(故人)の作品かな。

 
かなり以前に阿寒方面を旅行してた折り、民芸品店の店頭に素晴らしい作品が置かれていました。
杖をついたエカシ風なアイヌの立像だったんですが、気に入ったので「これはいくらですか?」と尋ねたら、「それは売らない。」と言われました。

その像に彫られた顔の表情や威厳のある風格が、年輩の店主に似てる気がしました。
なるほど、これを売ることはアイヌの魂を和人に売るようなもんだな・・まるで店主の分身のような、店の看板のような作品を金で奪ってはいけないな・・と納得して、いい物を見せてもらった気分で次の目的地へと向かったのでした。

その老店主はもうこの世にはいないだろうけど、あの彫像はどうなったのかなぁ。



post by 雁来 萌

20:16

蝦夷の細道 コメント(5)