2015年01月31日
竹鶴物語・その3
竹鶴さんはグラスゴー大学の応用化学科へ入学しました。 事前に入学可能かなどを確認してなかったものの、イギリスの大学は、外国人であっても高卒以上であれば入れてもらえるとのことなので、大阪高等工業専門学校へ行って英文の卒業証明書を作成してもらい、それを持参して行きました。 新学期はとっくに過ぎていたけど、聴講生としてすぐに学ぶことができました。 先月お亡くなりになられた息子さんのエッセイで、グラスゴー大学のことがこちらにあります。 5か月間、アメリカにいたおかげで、英語には不自由しなかったようです。 というか、米語ではなく英語なので、とてもよく聞き取れたようです。 大学で最初の講義のとき、教授が「新顔のミスタータケツルですね。君はスペイン人かね?」 「日本人です」で、珍しい東洋からの聴講生に学生たちは驚いた様子だったとか。 すでに大阪で醸造学を学んでいたので、大学の講義は知っていることばかり。 ウイスキー製造の講義はありません。 やはり工場での実地見学が欠かせません。 大学教授は見学できる工場を紹介すると約束はしてくれたものの、なかなかOKの連絡が来ません。 4月になっても音沙汰がないので、意を決してウイスキー製造についての本を書いた権威を訪ね、教えてもらおうとしたところ、法外な謝礼を要求され断念。 その謝礼は現在の日本円では、最初の月が約100万円、次の月から毎月75万円、工場へは100万円(1回だけ)という金額でした。 そこで、アポなしで工場を当たってみることにし、ロングモーンという町の蒸留所へ行ったところ、実習を許されました。 こちらにそのことが記されています。 夏は大学も蒸留所も休みになるので、フランスへ渡り、ボルドーで1ヶ月間、ワイナリーを見学し、リタへは香水をお土産に買ったそうです。 リタは婚約者がいたけど、第一次大戦で戦死しているのですね。 ダマスカスで亡くなったということですから、映画・アラビアのロレンスで有名になったロレンス中佐の部下だったのでしょう。 1920年1月8日、竹鶴さんとリタさんは結婚しました。 結婚してからはキャンベルタウンという、余市と同じく鰊とウイスキーで栄えた町に住み、ヘーゼルバーン蒸留所で実習をしました。 ヘーゼルバーン蒸留所についてはこちらを参考に。 スコッチウイスキーがスコットランド以外で人気が出たのはそう古い話ではなく、1880年くらいからだとか。 1831年に連続蒸留器が発明され、大量生産できるようになったのと、イングランドではビール・ワイン・ブランディーが主に飲まれていたけど、19世紀半ばにフランスのブドウ園に病虫害が蔓延して供給不足になったのがきっかけで、スコッチがイングランドでも飲まれるようになったそうで、ウイスキーが世界に広がってからまだ40年くらいしか経ってない頃に竹鶴さんが渡英したことになるようです。 1920年11月、アメリカ経由(シアトルから船)で竹鶴夫妻は横浜港大桟橋に着きました。 運賃や日数などは記されていませんが、往路の1918年のときと同じくらい(太平洋航路は3等で84円)でしょうか。 ただ、1937年(昭和12年)の横浜シアトル間の氷川丸の運賃は1等 250円、2等 130円、3等洋食 95円 3等華食 75円 3等和食 60円となっていて、今の貨幣価値では3等和食は15万円くらいです。 船舶会社の競争が激しくなって価格が下がっていったので、復路は往路より、ちょっと安くなっていたかも知れません。 船には摂津酒造の社長も一緒に乗っていました。 欧州視察旅行をし、竹鶴夫妻と一緒に乗っていたのです。 このあたりはドラマと大きく違いますね。 結婚したことは事前に手紙で関係者に知らしています。当然ですね。 ドラマでは帰国するまで誰も結婚を知らなかったことになっていますが、いくら面白くする脚色とはいえ、あまりに不自然なストーリーですよね。 大桟橋には妹や摂津酒造東京駐在員などが出迎え、その晩は摂津酒造の東京宿舎で帰朝歓迎の宴を開いたそうです。