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2017年04月19日

日帰り周遊パスの旅・その2

苫小牧行きの列車が岩見沢を出ると、上幌向の近くまで函館本線と並走しますので、かつての貨物ヤード・岩見沢第2機関区の跡地横を通ります。
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昨日書いたように、かつては道東・道北から大量に貨物が集まって入れ替え作業をしていたので、東北・北海道では最大規模の貨物ヤードでした。 かなり向こうまで何十本もレールが敷かれ、本当に大規模でした。 鳥栖の貨物ヤード跡地にはサッカースタジアムができましたが、ここは何にもならないでしょうね。 ここで函館本線と別れ、12号線を渡って志文駅を目指します。
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かつては万字線の起点だったので賑わっていた志文駅。駅名表示板がぼろぼろなのは悲しい。
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万字線の痕跡(大きく左カーブする土手とこ線橋)が、まだ残っています。木の枝の先端のあたりにこ線橋が見えます。
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万字や美流渡はもともと栗沢町の一部だったこともあり、実は万字線の建設を計画した当初は起点は志文駅でなくて栗沢駅だったそうです。 栗沢駅を起点に万字線を建設すると、本町地区(栗沢駅や役場のある中心市街地)の人が炭鉱地区(美流渡・万字)へ買い物や遊びに行き、本町地区が寂れるとして反対運動が起こって、隣の志文駅から路線を敷くことになってしまったそうです。 もしも栗沢駅が起点だったら、栗沢に国鉄職員が多く住み、賑わったことでしょう。 なんと先見の明がなかったのか。 炭鉱が栄えていたころ、美流渡は居酒屋や料亭などが軒を連ね、岩見沢から美流渡に呑みに行く人が多かったと聞いていますが、たしかに栗沢から万字線を敷いたら、そういう人も増えるでしょうけどね。でもやっぱりメリットの方が多いでしょう。 栗沢駅に着きました。私が小学生の時は職員が13人(非番もいるから常時5~6人)もいたんですが、現在は無人駅です。かつてはキオスクだってありました。
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昔は郵便荷物は6㎏の制限があり、それを超える荷物を送る場合は駅に持って行き、国鉄に荷物として送ったものです。(自分で運べないものは日通に電話) 大学に入るとき、引っ越し荷物は布団などわずかで、チッキで送ったので、駅に布団袋を持って行ったんですよ。 チッキは死語になりましたね。若い人、いや、50歳以下の人は知らないですよね。 「国鉄手荷物」という名称で、乗車券と同じ区間を通常の荷物よりも格安(3割引きくらい)で送ることのできる制度でした。 従って、私が大学に入学するときは栗沢から新潟まで鉄道(連絡船)で移動しました。 ちなみに、赤帽の本来の意味も50歳以下の人は知りませんよね。(岸野監督のことじゃありませんよ) 栗沢駅の横には保線区支所もあって、その職員と家族だけでも何十人もいました。今は空き地です。
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あと、ここから木工場まで引き込み線があって、そこでよく遊びました。止まっている貨車の連結器のナックルを動かして解放・締結をやって「なるほど、連結器はこういう構造なんだ。これなら絶対外れないか。」と、小学生ながら感心したものです。 栗沢駅の次の栗丘駅を出ると、かつてのSLの撮影名所だった場所があります。複線で少し離れて2本の土手があり、1975年は全国から撮影者が大勢来ました。あちらがわの線路は、その先のトンネル崩落のため現在は使用していません。
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SL団結号もここで撮影しました。このときはSLが廃止になる2年くらい前の中学2年でした。
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posted by かもめ |10:05 | 鉄道(船舶・航空機等) | コメント(0) |

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