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2006年10月24日

OB戦その後(黄川田賢司編)

こちらは黄川田さんの感想。

http://www.renato-fc.com/kikawada/doc/index301.php

日刊スポーツから写真パクっていいのか?(笑)

posted by issey11 |21:18 | 10年の思い出 |

2006年10月24日

OB戦その後(伊藤優津樹編)

ゴールラインを割りそうなボールを必死に追いかけて3点目をアシストした伊藤優津樹が、自身のブログで、札幌ドームでのサンクスゲームのことを書いてくれています。

http://yuaal007.exblog.jp/3616496/

スタジアムもサポーターも日本一だって。
泣けるねえ~。

posted by issey11 |21:14 | 10年の思い出 |

2006年10月21日

OB向けチャント

と、タイトルをつけたものの、なかなか思い出せないな。

♪ふっかがわふっかがわともゴール、ふっかがわふっかがわともゴール

き・か・わだ!き・か・わだ!

♪せっき、おおせっき、おおゴールをきめろ~

このぐらい(黄川田のはチャントじゃないし^^;)。関浩二のはオリジナルが東京ガスだから、まあともかくとして、深川は久しぶりに聞いてみたいかも。

先月、横浜FC-ザスパ草津@国立を、前座のOB&スタッフ戦から見てたんですが、前座がえらく盛り上がっちゃって(そりゃ奥寺さんが出てて有馬が点取れば盛り上がるよなあ)、肝心の試合は、ザスパに完敗でした。終わった後、横浜FCサポーターは「前座で盛り上がってる場合じゃなかった…」と反省してました。

確かに今日はお祭りだし、今年の昇格はもはやかなり厳しいのではありますが、厚別の屈辱の借りを返さねばならんわけだし、本番の試合のテンションが下がらないよう、がんばっていきましょう!

posted by issey11 |06:33 | 10年の思い出 |

2006年10月16日

2000年8月12日 ひたちなか

なんでだろう?2000年といえば、あまりに衝撃的だった鳥栖との開幕戦、厚別での山瀬のデビュー戦Vゴール、駒場での永井vs岡田監督(笑)、暑くてたまらなかった室蘭の浦和戦、言わずと知れた12番の人文字と大森健作の決勝ゴール、野々村のヘッドバッド一発レッド…と、いろんな思い出があるのに、なぜか最初に頭に浮かんだのが、第28節・水戸ホーリーホック戦だった。

水戸ホーリーホックはこの年からJ2に加入して、ものすごく弱いチームだった(失礼)のに、なぜか夏場からえらい実績を持ったブラジル人選手が3人加わり(あれはいったい何だったの?)、この試合に関していえば、完全に水戸のペースだった(記録を見ると、前半のシュート数は水戸7本に対して札幌はわずか2本)。

このシーズンのコンサドーレの強さを考えれば、負けるはずのない試合だったのに、僕なんか、途中から、水戸を応援したくなっちゃったぐらいに、水戸が攻撃的ないい試合を見せていた。「えふしー、みと!」の掛け声に、メインスタンドから自然に手拍子が沸くのもむべなるかな。こういう試合をしていればサポーターも増えるだろうなと思ったことだった。

ここまで来たら引き分けられれば十分だ、いや、頑張ってる水戸に勝たせてやってもいいんじゃないか…ところが、この年のコンサドーレは、本当に強かったのだ。そんなことを考え始めた86分に、大森が後ろからロングボールを放り込み、高木がヘッドで落としたところを、なぜかゴール前に上がっていた名塚が右足で蹴りこんで、ついに均衡を破ってしまったのだ。

忘れませんよ。そのとき、名塚は、膝を曲げて、上空に向かって、渾身のガッツポーズを見せたのだ。もう、これ以上ないってぐらいの、力強い、魂の叫び(声は聞こえなかったけど)。僕はそのとき「あ~、水戸、ここまで頑張ったのにぃ~」と、なぜか水戸応援モードの感想を口にしてしまったことと、そう言いながらもキャプテン名塚をとても頼もしく思ったことは、まるで昨日のことのように(というのはちとオーバーにしても、鮮明に)記憶している。

おまけ写真。



その年の10月、平塚で昇格を決めたときの名塚選手。インタビューを受けていたのかなんかで、一人だけ、遅れて挨拶にやってきて、サポーターの前で深くお辞儀をしたのでしたね。


posted by issey11 |23:44 | 10年の思い出 |

2006年10月13日

1999年8月15日 厚別

今夜の「コンサでアシスト!」に、関浩二、深川友貴、名塚善寛の3コーチが出演し、10周年記念試合への抱負を語っていた。関コーチ(選手?)は、自らジャージの上を脱ぎ、半袖姿を披露(笑)。そこで、半袖アピールに敬意を表し、今日の10周年感謝デイ特設ブログへのトラバは、関浩二に決定。

1999年J2リーグ第21節。この試合が始まる前の時点で、コンサドーレ札幌は6位で、J1昇格圏内である2位との勝ち点差は11。残り試合が15であることを考えれば、ここで負けたら昇格は絶望的になる(と、このときは思ってたんだが、この年は最後の最後に思いがけず接近するんですよね)。対する大分トリニータは、2位と勝ち点差5の3位。

コンサドーレは、2節前の19節から、梶野とビジュのドイスボランチの前に棚田を置き、前線にはアシス、深川、吉原を並べるという攻撃的布陣を敷いていた。この21節の大分戦でも同様だったが、名塚のゴールで先制するも神野に2得点を決められて逆転されると(結果的に神野はこの年の得点王になるんですよね)、梶野→関、棚田→黄川田と、次々とFWを投入(この辺が岡田監督の采配の限界だったような気がして、だから僕は岡田さんはあんまり信用してなかったりするのね)。

しかし1点ビハインドのまま、試合はロスタイムへ。僕はこのとき、ああ、もう、これで今シーズンは終わりだ…と思いながら、(珍しく)ホーム側のゴール裏で見てたのです。

ロスタイム、右からのコーナーキック。ホームのサポーターを背にしたGK佐藤洋平が、守るべきゴールを捨てて相手ゴールへ向かって走って行った姿は、今もまだ思い出せる。その洋平の姿にどよめく中、アシスが蹴ったボールが関にどんぴしゃで入り、同点に追いついた。背中の背番号11を両手で引っ張って、自らの存在をアピールする関。これも、今もまだ、はっきりおぼえてる。

コンサドーレの背番号11はなぜか翌年に契約してもらえないことが続いていて、関もこの年のオフに戦力外になってしまうのだが(背番号11の呪い?を破ったのは播戸が最初)、記録には残らなくても記憶に残る選手だった…なんてことは、僕が言うまでもなく、みんなわかってるか。

関浩二が東京ガスから(当時のJFL得点王の称号を引っさげて)ベルマーレ平塚に移籍した直後、1996年の京都パープルサンガ戦@西京極でのJ初ゴールを生で見たのは、僕のプチ自慢(?)。それにしても、なんであんな試合をわざわざ見たんだろ?(僕は当時、東京に住んでたんですけどね)

posted by issey11 |23:54 | 10年の思い出 |

2006年10月12日

1998年10月21日 平塚

コンサドーレ札幌10周年感謝デイ特設ブログ(長いな^^;)の大野貴史にトラバ。

貴史と書いてよしふみ。セカンドステージから突然出てきて、いきなり五輪代表候補に呼ばれちゃった大野。同じ五輪代表候補には吉原宏太も呼ばれてて、厚別には「宏太の夢は俺達の夢 大野の道は俺達の道」という横断幕があった。あれ、好きだったなあ。

その大野がJリーグ初ゴールをあげたのが、1998年Jリーグセカンドステージ第12節のベルマーレ平塚戦。なぜだったか忘れたけどマラドーナがお休みで(出場停止だったのか?)、レンタル移籍してきて間もない棚田伸が先発したのだが、コーナーキックが続けてゴールラインを割ってしまうなど、まったくダメだった。この日の思い出は、大雨と、ダメな棚田と、大野のヘディングでのゴール、ぐらいだな。

水曜日の夜で、たしかBSで中継があった。僕は何かの理由で会社を休んで見に行った。観客が少なかったので、ずっと、傘をさして見ていた。

あらためて当日の記録を見ると、前後半90分間でのシュート数はベルマーレが26に対しコンサドーレ8、延長戦まで含めた120分間ではベルマーレのシュート数はなんと37本(コンサドーレは10)。コンサドーレ-新日鉄大分どころではないシュート数なのに、よく2-2で引き分けられたものだと思う(結果はPK戦でベルマーレの勝利)。

大野は、2000年からチームが森-名塚-大森の3バックを採用するようになったことで出番を失ってしまった。勝ちに行かねばならない状況下ではやむを得なかったのだろうが、もう少し我慢して使い続けていれば…と、思わないでもない。

posted by issey11 |16:34 | 10年の思い出 |

2006年10月12日

1997年6月7日 江戸川

コンサドーレ札幌10周年感謝デイ特設ブログの山橋貴史にTBしている勝手に叱咤コンサさんのエントリー読んで、僕もあの日のことが甦ってきた。

1997年JFL第9節、江戸川区陸上競技場で行われた東京ガス戦。今から考えるとすごいことなんだけど、ここまでコンサドーレは開幕8連勝だったのだが、この日はマラドーナがお休みで(出場停止だったんだっけ?<とにかくお休みだったことだけは記憶しているのだが)、鳥居塚が代役を務めていた。予想通り(?)コンサドーレは苦戦し、延長戦30分を終えてもスコアレスのままPK戦となり、最後は山橋が止められて、このシーズン初めての敗戦を喫したのである。

そう、でも、山橋は、この日MVP級の働きだった。6月7日なのだが真夏のような暑さの中、最後まで運動量が落ちることなく、とにかく一生懸命走っていた。一生懸命やる(でも地味で記録には残らない)ってことでは、あの頃のコンサドーレを象徴しているような選手だったんじゃないかな。

柳下正明監督が来てから「走る」ことが突然クローズアップされたような空気があるけれど(被害妄想?)、このチームはもともと、一生懸命やることが特徴のチームだったはず。だから、田渕龍二や古川毅のような地味な選手が、いまだに人気があるんだと思う(彼らは出場試合数が多いので記録に残っている選手ではあるが)。

最初の昇格のときはともかく、2度目の昇格と札幌ドームの開業で、華やかさを求められるようになってきて、地味だけど一生懸命というよさが、徐々に薄れて行ったような気がしてきた(書きながら、なんとなく)。

こんなことばっかり書いてると、山橋や江戸川の思い出からどんどん離れていくので、今日のところはここまで。

posted by issey11 |08:04 | 10年の思い出 |