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2007年01月23日

希望格差社会

格差社会といわれて久しい。格差があるのは単に金銭的なことばかりではない。
希望に格差のある「希望格差社会」である。

私が生まれた1960年代は高度経済成長のまっただ中。誰しもが今日より明日、明日より明後日、日々暮らしが良くなっていく、日本が経済大国への道を歩んでいると実感する、そんな希望に満ちた時代であった。東京オリンピック、大阪万博、札幌オリンピック。国際的なビッグイベントを次々行い、高度経済成長の名にふさわしいスピードで国民の生活は豊かになっていった。

それから40余年。バブル経済崩壊によってダメージを受けた日本は、いまだ回復していない。現在、いざなぎ景気を超える好景気だなどとニュースで報道されるが、いったいどれだけの人がそれを実感しているだろうか。むしろ夕張市が財政再建団体となったニュースの方がよほどインパクトが強い。この問題は決して夕張だけの問題ではなく、誰しもが自分の住んでいる町が第二の夕張になるのではないかと戦々恐々である。少子高齢化社会、年金問題。この国に希望を馳せる将来はあるのだろうか。

こうした閉塞感の中、将来に対する希望自体に格差が生じているとしか言いようがない。ニートやフリーターが社会問題になっているというが、不安定な経済財政の中、別に正社員になったからといってそれで希望が手にはいるというわけではない。彼らに定職に就くことを求めても、それを満たすだけの雇用があるというのか。若者が将来に希望を感じない社会という現実の前では、ニートやフリーターを「甘え」などと精神論的な切り口で語ったところで何の意味もない。将来への希望こそが明日への活力。どうやってその希望を見いだしていくのか。希望格差社会の出口の光が見えてこない。

いつの時代も世の中はヒーロー、ヒロインを求めている。ヒーローに自分を投影してそこに希望を見いだすのである。閉塞感に満ちた現代だからこそ、そこに希望を託す、投影する対象はますます重要になってくる。ヒーローの活躍が世の中を明るく照らし、その照らされた光の下に希望を託した人々が集ってくる。さらに、より強い希望の光を求め、世の中はニューヒーロー、ヒロインの誕生を渇望するのである。つまり天才少年、天才少女の出現を求めるのだ。なぜなら、彼らの存在自体が希望の固まりであるのだから。完成されたヒーローと違い、天才少年、天才少女は、その延びしろを考えるだけで希望がふくれあがる。いったいこの先どれだけ成長するのか、そこに思いを馳せるだけで人々は幸福感を感じ、活力を感じる。
イチローの光は確かに強く輝いているが、宮里藍や浅田真央はそれ以上に大きく輝くのではないか、そんな希望に満ちた光を放っている。

卓球といえば誰しも福原愛を思い浮かべるだろう。幼少の頃から常に注目され、順調に成長し、現在世界ランク13位は日本人トップ。世界に最も近い日本のエースであることは疑いのない事実。しかし、不思議と全日本では結果を残せず今回もベスト16どまりであった。最近の国際大会でも比較的安定した成績を残しているとはいえ、以前は海より広く感じられた彼女の延びしろが湖くらいにも思える。
そんな中、卓球界に新しい光が誕生した。
石川佳純。中学二年の13歳。卓球界では「愛ちゃん二世」と呼ばれ注目されていた逸材ではあるが、今回の全日本では史上初の中学生でのベスト4。福原愛を超える最年少記録だ。順調に成長したならば来年のオリンピック出場の可能性も十分にある。卓球で福原愛以外の名前が報道されることは少ないだけに、卓球界にとっては大きな光である。ちなみに男子で優勝したのは水谷準。こちらも17歳での最年少優勝。

何に希望を投影するかは人それぞれである。それにより明るい未来を想像し、自らの活力となるのならば、何でも良い。我々にはコンサドーレがある。小さなロウソクのような光だが、この火が消えない限りはいつか明るく輝くと信じている。

posted by たじ |11:51 | その他 | コメント(0) |

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