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2006年04月30日

手段が目的になる

手段が目的になる

私は結構好んでこの言葉を使う。
例えば自動車。本来は移動又は輸送の手段である。しかし、車好きの人は別に目的地が無くてもドライブする。移動手段であるはずの車を運転すること自体が目的になっている。あるいはもっと凄い人は「運転すると傷が付く」と言って車庫の肥やしにしていたりする。この場合は車を所有すること自体が目的となっている。例えばブランド品のバッグなんかは買ったけど使っていない、という例は多いのではないか。物を入れ持ち運ぶための手段であるバッグを所有すること自体が目的となっている。こういう例は幾らでもある普通の現象、法則性だ。

「応援」もまたしかりである。応援とは、応援対象を励まし、後押しし、良い結果をもたらすための手段であるが、それが高じると応援をすること自体が目的となる。「応援では勝った」「応援では負けていた」といったことがよく言われる。応援そのものを勝負の対象としている。「応援が楽しくてスタジアムに来ている」という言葉もよく聞く。これらは応援という「手段」が「目的」になっている事例といえる。応援そのものが楽しい、というのは大切なことのような気がする。手段の中に楽しさ、喜びを発見するということは、一つ人生が広がることかもしれない。

手段が目的になる。狭い道に入っていくようでもあるが、その先にはその道に入った人だけがたどり着ける場所がある。楽園だといいのだが、たまに泥沼なこともあるので要注意。

posted by たじ |09:55 | その他 | コメント(2) |

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この記事に対するコメント一覧
Re:手段が目的になる

たこ焼きを買いに行くのは食欲を満たすための手段である。
しかし腹がへっていなくても、ほっと12には行く。
たこ焼きを買いに行くことが目的となっている。

てなところでしょうか。

posted by まじっく | 2006-04-30 22:01

Re:手段が目的になる

>まじっくさん
そう言っていただけると嬉しいです。

posted by たじ| 2006-05-01 09:01

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