2008年02月26日
すごく嬉しいニュースです。
元コンサドーレ札幌 村田 達哉 氏が北海道フットボールクラブ 強化部スカウト担当に就任! http://www.consadole-sapporo.jp/news/diary.cgi?no=1050 だそうです。 村田さんは、今続けている「コンサドーレの道」にもいずれ主要人物として登場させようと思っておりましたが、初期コンサドーレを象徴する選手で、私も大好きでした。 サッカー選手としてはけっして体格に恵まれず、ひときわ優れた技術や身体能力があるわけではないものの、コンサドーレで2度昇格を経験し、仙台に移ってからも昇格を経験して、30過ぎまで現役を続けるという、とっても幸せな選手人生を送った方でした。 札幌時代は、札幌への愛着を事あるごとに現し、サポにも愛されていましたが、仙台に移ってからは、仙台のJ1昇格に貢献したことで、仙台サポにも愛されていたようでした。 仙台で引退した後はそのまま仙台のフロントに入ったので、“仙台での評価も高かったんだな”と納得するものがありましたが、“あんなことを言ってたけれど、やっぱり村田さんは札幌よりも仙台なのか”と少し寂しい気持ちでいました。 しかし、昨年あたりから道新にコラムを寄せるようになり、まだ北海道への愛着があるのか、と思っていたら今回のニュースです。 もともと札幌のスカウトは佐藤尽さんでしたが、尽さんは今期から旭川ユースの強化スタッフになったので、尽さんの代わりに誰がスカウトを勤めるんだろうと思っていたら、こういう事だったんですね。 村田さんの人柄ならばスカウトとしてうってつけだと思いますし、それ以上に、村田さんが最後に札幌を選んでくれたことが、とても嬉しかったです。 引退試合となった2000年、室蘭での天皇杯草津東戦の試合後、村田さんがサポに「札幌をたのむぞ」と呼びかけていたことは、決してファンサービスではなかったのですね。 こうしてクラブの歴史は積み重なるんだ、としみじみ。
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2008年02月24日
コンサドーレへの道・第12回『コンサの誕生(1)ー『ボンボンの暴走』
日本のJリーグバブルがはじけた1995年、札幌では「Jリーグ札幌ホームタウンチーム設立推進協議会」という団体が立ち上がり、「札幌にJを」というステッカーが街中に目立つようになりました。 93年にJバブルが起こると、北海道サッカー協会でもJクラブを目指す目指す「Jリーグ特別委」を発足させたものの、道協会は実行力に欠け、結局、札幌よりも1年遅く取り組みを開始した仙台が先に運営会社を設立しました。 こうした中で、JC(青年会議所)に集っていた若手経営者たちの間から、Jクラブを札幌に作ろうという運動が始まったのでした。この推進協議会の初代会長であった原田建設工業の原田信隆副社長は札幌JCの理事長で、広島県の広島JCのOBとゴルフをやっていたときに、「理事長として何をやるのか。Jリーグでも呼んだらどうか」と言われたことが、契機になったと言います。 推進協議会の中心人物たちは、地元企業のボンボンで、サッカーに深くか関わった者たちはほとんどいませんでした。若者たちの盛り上がりに危うさを覚えた財界の長老たちは冷ややかな目線を送っていました。当初推進協議会の会長には北海道サッカー協会の理事の会長にお願いする予定だったものの見事に断られ、商工会議所の会長など財界の顔役にも参加を呼びかけたものの、断られています。 「Jリーグ崩壊」という本が出たのはこの年。誰の目にもブームが下り坂にあったのは明らかだったのに、JCの青年たちは反発を受ければ受けるほど、Jクラブ設立に向けて突進していったようです。そしてここで生じた財界首脳と若手経営者たちとの溝は、後々までコンサドーレ札幌の経営に暗い影を落とします。 一方、JC活動とは無縁な、一市民であった私はこのニュースを何か遠い外国の話でもしているかのように聞いていました。つい1,2年前まであれほど熱狂していたJです。しかし、ここが地方在住者の悲しいところ。全国的な話題のプロスポーツはテレビを通して触れるものであって、自分の生活圏にあるようなものではない、という感じが染みついていたのですね。Jリーグへの興味とか言う問題以上に、「札幌にJリーグを」という呼びかけ自体が、ピンと来ないものでした。 サッカーよりも前に、札幌にプロ野球球団を誘致しようという運動もあったんですが、今と違って当時はプロ野球の12球団の牙城ははるかに強固、誰が見ても夢物語でした。私は、その運動と同じようなもの、つまりは夢物語、と思って見ていたんです。 ところがJFLにいた東芝がサッカー部を切り離したいという話が札幌に伝わり、95年の後半からあれよあれよという間に、夢物語が現実の物語になっていきました。
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2008年02月17日
コンサドーレへの道・第11回『Jバブルの崩壊(4)ー『結果の均等配分』
昨日のエントリーで、プロ野球の運営コンセプトという話をしました。これについて補足しておきます。 プロ野球とJリーグの運営コンセプトで顕著な違いは、プロ野球には「結果の均等分配システム」(と私が名付けた)というべきものがあることです。それは下記に特徴づけられます。 ・資金力の乏しい企業の参入排除(新規参入権利金60億とオーナー会議の承認) ・地域に対する排他的営業権(フランチャイズ制) ・ドラフトによる新人選手の均等分配 ・FAを取得するまでの間、選手の独占的所有 これらの措置によって、戦力格差が広がるのを防ぎ、結果的にどのチームでも最低4割以上の確率で勝利と言う「結果」を享受できるように調整されています。さらに、近年ではプレイオフの導入によって、優勝争いという「話題性」も、中位、下位のチームにも開放されました。 ところが、Jリーグには、このような「結果の均等配分システム」はありません。選手の獲得も、移籍もまったくの自由競争で、年々戦力が格差が広がっています。手本としているヨーロッパでは、どの国のリーグでも優勝は上位の数チームに限られています。これは自由競争の果てに戦力格差が固定化された状態にあると言えます。 工藤さんのいう「チーム数が多すぎることでチーム間の格差が広がり、首位の勝率が0.7を超え、最下位の勝率が0.3というのでは、プロスポーツの興業として失格だ」というのは、ファンがチケット代支払った金額に見合う価値提供として、最低でも2試合に1試合程度は「勝利」と言う楽しみを構造的に提供できなければ、興業とは呼べないということでしょう。 反対に、プロ野球の運営コンセプトの欠点は、参入チームを増やすことができない点にあります。チームが増えれば増えれるほど、結果や話題の均等配分は難しくなり、戦力格差はどうしても広がってしまいます。そのためにプロ野球では、参入条件を高くし、参加チーム数を最低限に抑えることで「結果」が分散するのを防いでいます。 こうしてJリーグでは、全国すべてのチームに、チャンピオンズリーグ優勝チームと世界一を賭けて戦える可能性が残されている反面、プロ野球では四国や九州の独立リーグのチームがいくら優勝しようと、セ・パのリーグに入ることはできません。 私的にいうと、プロ野球の結果の均衡配分システムはうらやましいです。 これがJでも機能していれば、サポが減資の問題や、累積赤字の問題に頭を悩ます必要はなかったでしょう。しかし、本当にJがプロ野球と同じ結果の均等配分システムを採用したならば、コンサドーレ札幌は、Jリーグで戦うことはなかったでしょう。そもそもコンサドーレ札幌と言うクラブは誕生すらしなかったでしょう。 プロ野球の方は「プロは結果がすべてだ」とよくおっしゃいます。しかし、結果がすべてである反面、その担保システムとして「結果の均等配分」が行われていることはあまり触れられません。Jリーグには結果の均衡配分システムがないのに、プロ野球と同じく「結果がすべて」を求めると、コンサドーレ札幌のようなことになってしまいます。 (すみません、脱線しました。次回こそは・・・・)
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2008年02月17日
コンサドーレへの道・第10回『Jバブルの崩壊(3)ー『Jリーグ崩壊』
95年を境に、Jリーグバブルははじけました。 前年まで、Jリーグを囃したててきたスポーツマスコミはこの年を境に手のひらを返したように態度を変えます。たとえば、「Jリーグ崩壊」という95年に出版された本。 これは工藤健策さんというスポーツジャーナリストが書いたフィクションで、Jクラブへの出資企業の利益を省みず、理想ばかりを追う川渕(川淵ではありません)チェアマンに、危機感を抱いたj(小文字のj)リーグの人気5球団が、川崎ヴィルディ(笑)を先頭にして日本トップリーグという新リーグを結成する、というストーリーです。 この本で展開されている論調は、その後のJリーグ叩きのマスコミ論調に共通するものなので、すこし紹介しておきましょう。 工藤さんは、Jリーグ崩壊の原因にチーム数が多すぎることを挙げ、次のような弊害があるとしています。 (1)試合のレベルの低下 (2)チーム数が多すぎてファンがチームを覚えきれないという問題 (3)チームが増える度に1チーム当たりの露出が減ること チーム数が多すぎることでリーム間の格差が広がり、首位の勝率が0.7を超え、最下位の(浦和レッズです)勝率が0.3というのでは、プロスポーツの興業として失格だというのです。そしてチーム数を絞りリーグ戦の後に上位チームがプレイオフを戦うメリカメジャーリーグの方式を導入するように提言しています。こうすることで、リーグ戦での優勝争い、プレイオフでの優勝争いと、ファンは何度でも緊迫したゲームを楽しむことができると言うのですね。 チーム数が多くなることで試合のレベルが低下するという主張は、当時は頷けるものがあると思っていましたが、しかし今となっては、チーム数を絞り同じチームと何度も何度も対戦することで、試合のレベルが向上するのかは、はなはだ疑問です。 また試合のレベルが下がるとファンがそっぽを向くと、工藤さんはこの本の中で何度も言っていますが、95年当時、どれほどの日本人がサッカー試合のレベルを判断できたのでしょうか。私自身にしてから、試合のレベルが何となくわかり始めてきたのは生観戦を100試合、200試合と続けてきたつい最近です。そしてある程度試合内容がわかるようになると、たとえJ2であっても内容的にレベルの高い試合があることがわかってきました。 どうやら工藤さんが「試合のレベル」と言っているのは、サッカーの試合内容そのもののレベルではなく、優勝争いや、プレイオフへの進出争いなどの「話題」の大小、つまり話題の多い試合がレベルの高い、内容の濃い試合と言っているようです。そしてチーム数が多くなればなるほど「話題」のパイが小さくなると言っているんですね。 こう俯瞰してわかるのは、工藤さんがJリーグに採用するように言っているのはプロ野球の運営コンセプトなんです。Jリーグの運営コンセプトが、プロ野球のものと異なった方向にあるので、長続きしませんよ、と主張しているのですね。 さて95年にJリーグバブルが弾けた原因は、次のようなものではなかったかと思っています。 80年代のプロ野球黄金時代に、プロ野球的な運営コンセプトにどっぷり浸ってしまったスポーツマスコミは、自分たちのパイをさらに広げてくれるものとして、Jリーグの登場を歓迎した。 ところがJリーグの運営コンセプトが、慣れ親しんだプロ野球のものとは異質であるこに気がつく。そしてプロ野球のような運営コンセプト目指すように促した。ところがJリーグはそれを拒む。長年慣れ親しみ、心身に染みついてもいるスポーツ観が通じないと知ったスポーツマスコミは、Jリーグを異質なものとして手のひらを返したように排除し始めたと。 こんな逆風の中、96年にコンサドーレ札幌はスタートします。そしてコンサドーレは、Jバブル崩壊の負を、今も背負うことになります。 (次回こそコンサが出てくる・・はずです)
posted by hm1644 |01:44 | コンサドーレへの道 | コメント(6) | トラックバック(1)
2008年02月14日
コンサドーレへの道・第9回『Jバブルの崩壊(2)ー『Jという違和感』
日本最初のプロサッカーリーグから、私を遠ざけたものは次第に大きくなっていった違和感だったと思います。 その違和感は、1993年のJリーグ開幕節、川崎対横浜の試合からありました。5万9626人の観客を集めたこの試合を、私はテレビで食い入るように見ました。中継のアナウンサーは、しきりに讀売が日産に対して連敗を続けていることを強調し、因縁の試合であることを印象づけました。 ここで私はアレレ・・と思ってしまったのです。その当時としては海外サッカー厨だった私にとって、何年も前に世界アマチュアサッカー大会(メキシコオリンピック)で3位になったことが一度だけあるという極東の後進国のアマチュアサッカーリーグなど存在しないも同然でした。そんなリーグでの連勝記録を語られても・・・という思いがありました。 何よりも私がJリーグに期待したのは、積もったばかりの新雪に初めて足跡を残すような、初々しさ、新鮮さだったのです。開幕に並んだ10チームはどれも横一線で、リーグが進むにつれて自分が思いを寄せられるチームが現れてくるはずだと、期待しました。 ところがオリジナルの10チームの中で、川崎と横浜、なかでも川崎・・・というか讀売は特別な存在らしいのです。こう聞くと、自分の関知しないところで特別な存在が作られ、押し付けられることに、私は大きな違和感を感じてしまいました。 確かにこの年の川崎は特別な存在でした。しかし、試合を観ても、NーBOX時代の磐田ほどの感心は沸きませんでした。何よりも、試合中に執拗に繰り返される讀売・讀売・讀売・・・の連呼がうざかった。 Jリーグが、ヴェルディ川崎と呼んでいるのに、讀売新聞だけは讀売ヴェルディと表記していました。これに対して川淵チェアマンがクレームを寄せると、渡辺という讀売新聞のお偉い人が出てきて、川淵を独裁者と決めつけました。 そしてこの渡辺という人は、このままではJリーグはダメになるとして、オーナー会議の開催を声高に主張しました。そして「俺はサッカーの選手は、カズとラモスしか知らないんだよな」と笑ったのです。 がく然としました。「俺は、時計台と雪まつりしか知らないが、このままでは札幌はダメになる。俺の言う通りにしろ」と言っているようなものです。 もちろん、川淵チェアマンは、渡辺という人の要求を突っぱねましたが、私にとってはどうでもいい日本リーグ時代の亡霊が次々と現れて自慢気にJリーグを語り始め、真っ白いキャンバスを期待していた私の思いは裏切られました。 そうして95頃になると、私はJリーグの試合中継をほとんど観なくなりました。要は“にわか”だったのですね。しかし、この頃札幌では、「Jリーグを札幌へ」というステッカーを見ることが多くなっていたのです。 (ようやく次回にコンサドーレ札幌の登場ですかね)
posted by hibari |01:25 | コンサドーレへの道 | コメント(4) | トラックバック(0)
2008年02月12日
コンサドーレへの道・第8回『Jバブルの崩壊(1)ー『巨人のいない国』
みなさま 滞ってしまいました。 多忙というのもあるんですが、選手が札幌にいない。グアムに行っているということもテンションを下げる理由なのかと、思います。 コンサドーレ札幌への思い入れのかなりの部分が、「同じまちに住んでいる選手」というのがあります。札幌に住んでいると、ごく微量ながら西の方から磁力を感じるんですね。しかし、短期間とはいえ、選手がいなくなると、磁力も消えるようで・・・・。 ネタにも困ったところで、放置していたネタを、むりやり押し入れから引っ張り出して再開します。私がコンサドーレ札幌のサポーターになってゆく過程を描いた連載<コンサドーレへの道>の第8回です。前回は、Jリーグバブルの話でしたね。(右のカテゴリーで「コンサドーレへの道」をクリックしていただけると、続き物だとわかります) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー さて、小学生までの私は熱烈な巨人ファンでした。ちょうど、長嶋の最初の監督時代で、家に帰るとテレビでは巨人の星、ラジオを付ければ毎日ジャイアンツで、本当に巨人に包まれて暮らしていたいし、そのことになんの疑問もありませんでした。当然、帽子はジャンヤンツ帽でした。 ところが思春期になると、アンチ・ジャイアンツになっていきます。というのも、わが家では、父が私以上の巨人ファンで、反抗期の私は、父が好きだという理由で巨人にも反発したのです。同時に、音楽、特にブリデッィシュ・ロックにのめり込むようになり、気持ちはますます巨人から離れていきました。 当時、日本の80年代はプロ野球の黄金時代、中でも巨人一極支配の時代でした。あまりにもダントツの存在である巨人の試合中継を成り立たせるために他球団が存在し、巨人が日本一という称号を得るためにパリーグが存在する、という構造でした。 こうなると、新聞、テレビ、ラジオは、朝から深夜まで切れ目なく、巨人・巨人・巨人・・・。あたかも日本の大衆文化には巨人しか存在しないかのような調子でした。NHKと民放で巨人戦が放映され、ラジオでは、HBCとSTVの両方で同じ巨人戦が放映されていました。何という電波の無駄遣いと思いました。そしてその前後には、巨人を持ち上げる番組が延々と続き、私の愛聴していた音楽番組は打ち切りになりました。 巨人は日本人にとってもはや、口を開けば自然に肺に入る空気でした。しかし、私にとっては、真夏のねっとりとまとわりつく湿気った空気だったのです。 巨人から気持ちが離れてしまった私には、このマスコミの洗脳のような連呼が、さらに巨人から気持ちを遠ざけ、ひいてはプロ野球そのものに対しても覚めた気持ちになっていたのです。「アンチ巨人も巨人ファン」という理屈ですべてが巨人の中に取り込まれていく中では、巨人から逃れようとするならば、プロ野球自体から離れるしかなかったのでした。 そうしたなかで、93年にはじまったJリーグには、巨人という圧倒的な存在が全く存在しないすがすがしさが魅力でした。むしろ私にとっては、サッカーへの興味よりも、巨人巨人の連呼から逃れるシェルターだったのかもしれません。 しかし、私にとっての解放空間に、またしても「巨人」が忍び寄ってきたのです。(続く)
posted by hibari |00:01 | コンサドーレへの道 | コメント(3) | トラックバック(0)
2008年02月07日
年度末進行
すみません・・・ いわゆる年度末進行で、更新が想うに任せません・・・ 連日、終電・・・・ ちょっとおまちください。
posted by hibari |00:19 | 軽い話題 | コメント(3) | トラックバック(1)