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2020年05月13日

これまで印象が強かった試合のベスト10

 暇なので、個人的にこれまでコンサで印象が強かった試合のベスト10を列挙してみた。


1位 1997年5月25日JFL川崎F戦、バルデス3連発の間で厚別のS席で自発的に出たすさまじい声援

2位 2011年12月3日J2FC東京戦 「打てば入る」内村の2ゴールで最終戦でJ1昇格を決めた。

3位 2018年11月12日J2第41節千葉戦。内村の決勝ゴールに飛び上がって喜 んだ。J1昇格に王手をかけた一戦

4位 2000年7月29日J2浦和戦、お行儀の悪い狼藉ファンをだまらせた両サイドの得点

5位 2019年10月26日ルヴァンカップ決勝川崎F戦。あと1歩で優勝を逃した。

6位  2001年9月16日J1清水戦 今まで一度も勝てなかった清水に移籍してきたばかりの堀井が延長Vゴール。

7位  1998年12月5日J1参入戦福岡戦 最後で勝てばいいと思っていたが、次々と点を取られて、室蘭が静寂に包まれた。

8位  2000年3月12日開幕戦アウェイ鳥栖戦、エメルソン3連発で鳥栖のサポータに「幼稚園児の中に大人がいるのは反則だ」と言わしめた試合。

9位 1996年9月12日のJFL本田技研戦、ペレイラの負傷退場後の厚別にこだました救急車の音

10位 1997年6月13日JFL本田技研戦。マラドーナのFK1発で勝った試合。


10位まであげたが、古い試合が多い。やはり古い試合の方が記憶に強烈に印象が残っているということか。

 1位に挙げたのはバルデス3連発。本当にこの試合は奇跡のような試合だった。試合の途中では勝てるとは思わなかった。ハーフタイムに厚別のトイレに行ったがそこでコンササポが勝てるわけがないと言っていたのが印象的で、そんなことはないと心に強く思って延長戦で逆転した溜飲が下がる試合でもあった。




                                   
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posted by 孔明 |19:54 | コンサドーレ の思い出 | コメント(3) | トラックバック(0)

2020年05月09日

スポニチ河合竜一マイメモリーズ(2018年11月12日J2第41節千葉戦)

 この試合はコンササポの間でも語り継がれる試合だろう。この勝利によってJ1昇格を手繰り寄せた。逆転の内村のゴールをTVで見て喜んで飛び上がった記憶がある。

  抜粋


「負けが許されない状況で適地に凄い数のサポーターが集まってくれた。2つの自動昇格枠をかけた争いで、勝ち点で2位松本に追いつかれ、3位清水と3差、あの千葉戦に負けたらおそらくは昇格していなかった。あんな劇的な試合はサッカー人生そうない。
  前半に先に失点した。DFラインでは福森がレギュラー2年目で、進藤が1年目。大きな重圧のかかる試合は経験していない。だから声を張り上げて「大丈夫だ!いける!」と鼓舞した。この試合は先発を任されたが、サブが多かった年。声を出し、体を張って周りを奮い立たせる。あの試合はそれしか考えなかった。ピンチをしのぎ、後半にセットプレーから追いついた。けるぞと思う一方、最終節に向けて最悪引き分けでもいいと考えていた。決勝点の数分前、ウッチーをつかまえて言っていた。「DFは失点しないようにする。お前だけはチャンスを狙っていてくれ」と。
 アディショナルタイム5分。俺は最後方からヘイスの頭を狙って蹴った。ヘイスと相手DFが競り合って届かず、前に抜けたボール。こぼれ球を狙っていたウッチーが右足ボレーで決めた。もう頭の中は真っ白。ウッチーの元に行きたかったけど、遠すぎて(笑い)。なので相手がすぐ始められないようにセンターサークルに入っていた。俺のやることをやろうと思った。 
 ウッチーに話したのは映像に残っている。解説の水沼貴史さんがちゃんと「何か話していますね」言ってるから確認してほしい。
 翌17年からJ1を守る。18年には4位になり、昨季はルヴァン杯で決勝に進んだ。これだけのクラブになるとはサポーターも想像していなかったと思う。
 常勝軍団になるに自分たちで流れをつかむようにならなきゃいけない。もっと細部にこだわり、流れを変えるミスをしない。今の常勝・鹿島があるのは勝利への強い執念、執着の積み重ね。日々の練習からワンプレーにこだわり、チャレンジはするけど怠慢なプレーはしないように徹底してほしい。次のステップに進むコンサドーレをOBとして見守りたい。

 この試合はコンサの歴史として語り継がれる試合になるだろう。首位にいたが勝ったり負けたりで、徐々に2位3位に追い上げられていた状況。
 最終戦はドームだったが、かなり苦しい中で迎えた強敵千葉との対戦。前半失点してかなり難しい試合になったが都倉のゴールで追いついた。その後はかなり千葉に攻め込まれた。
 そして後半のロスタイム、河合のロングボールがうまくこぼれだ所で内村の狙いすましたシュートが決まった時には選手たちも大喜び、ちょうどゴールしたゴール裏にサポーター席があったので内村はもみくちゃだった。かなりの時間喜んでいた。
そんななかでも河合はやはり冷静。センターサークルで相手の攻撃を阻止していた。
 この試合に負けていたら河合の言うように昇格はなかったかもしれない。そんな分岐点になるような試合だった。


 この内村のゴールは何度も見た。本当に印象に残る試合だった。



                         
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posted by 孔明 |18:58 | コンサドーレ の思い出 | コメント(4) | トラックバック(0)

2020年05月06日

スポニチ池内友彦マイメモリーズ(2008年12月6日鹿島戦)

抜粋


 (元札幌DF池内友彦氏が思い出の試合に選んだのは、自身の引退試合となった2008年12月6日J1最終節の鹿島戦(0-1)だ。)

「自分は札幌と鹿島にしか在籍していない。最後に在籍した両チームで試合がdけいたのは縁というか運というか巡り合わせが凄いと感じた。その1、2試合前には戦力外を宣告されていた。札幌でプレーし、鹿島と対戦するのも最後だなと思っていた。
 前半に1点を決められて敗れたが、内容はあまりよく覚えていない。自分を獲ってくれた両チームが最後に地元の札幌ドームで対戦。得点を取った以上に幸せな試合だった。
最後のホイッスルが鳴ると線審が寄ってきて「お疲れ様」と声をかけてくれた。
その後、ピッチを一周したときに鹿島や札幌のサポーターが『池内コール』をしてくれて、とても感動した。
 鹿島はその試合で優勝を決めたので、夜は鹿島の選手たちと飲みに行った。
 札幌はその年の夏に千葉と最下位争いをしていた。実はその時に千葉から1年半計契約のオファーが来ていた。31歳の年齢や地元のチームでやりたいと言う気持ちもあり、断った。
 結果的に移籍していれば引退は延びた。も1年プレーできたけど、今はあの試合で引退出来て良かったと思う。
 札幌もこの何年間で選手の質が変わった。今はまだ監督の魅力の方が強いが、札幌もこれからJ1のトップに割って入っていくと思う。ミシャになって今はそこまで選手の解雇もなく、こういうふうに何年間もかけて土台をつくるとチームは変わる。監督ではなく選手が目立つようになった時にタイトルを獲ると思うし、かつての鹿島のような常勝軍団に近づいていくと思う。
2008年は宮澤が1年目だった。おとなしくて全然離さない子だった。この前、話したら「あの時はみんなが怖かった」って言ってたけど(笑い)
でも人は責任や経験で変われる。だから今の宮澤がある。宮澤のような中堅がチームを引っ張っているのは、とても良いことだと思う。」

  この試合は「屈辱の試合」として良く覚えている。もっとも試合の内容はまったく覚えておらず、試合終了後だけ覚えている。なぜかと言うと、この試合で鹿島に負けて鹿島が優勝して、優勝セレモニーを行われて、最終戦の選手のサンクスウォーキングがなかなか始まらずじりじりとした印象があるからだ。
 

 この年再度降格したが、やはり内容、結果とも悪かった。池内が2度目に来てくれてCBを担ってくれて頑張ってくれたがいかんせん選手の層が薄かった。

 仕方がなかった。最終戦はなんとかして目の前で胴上げだけは阻止したいと思って必死に応援したが届かなかった。鹿島のうまい試合運びにいつものようにやられた印象がある。

 しかし、今は違う。池内の言っていたとおり、タイトルをとれるチームになってきたし、鹿島を追い越すようなチームになれると思う。



                  
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2020年05月05日

スポニチ曽田雄志のマイメモリーズ(2002年11月30日最終戦の広島戦)

 2002年は2シーズン守ったJ1から降格した年

 この試合は曽田が途中出場でコンサ日本人初ハットトリックした試合。

抜粋

「ファンの方から『ハットトリックの試合をみました』と、現役の時も引退後も声をかけられることが多い。日本人だとJ1クラブ初。ゲーム内容、ハットトリック、当時の札幌の状況もあって、自分も思い出深い。

 オーストラリアキャンプで鼻骨と頬の陥没骨折をした。鼻血は3日間止まらず、『もう1ミリ深かったら失明だった』と言われた。そこそこ使ってもらったけど、初めてDFやったり監督も代わったりで何もうまくいかない。4試合を残してJ2降格が決定。最終戦に向けては、次の年への意気込みというより、心の中では『来年クビになるのかな』と思っていた。
 相手の広島はこの試合にJ1残留がかかり、90分間での勝利が条件だった。前半終了間際から途中出場。1-1から後半に2点取られ、もう終わりだと思っていたら、自分のゴールで1点返せた。3-3の後半42分、セットプレーでマークしていた選手に決められたが、1分後、GKとの1対1を沈めて劇的に追いついた。

 迎えた延長前半。左からのクロスをヘディングシュート。Vゴールが決まった。J2に降格するチームとは思えない盛り上がりだったのを覚えている。
 クビになるかと思っていた中でも、常に練習は全力でやっていた。努力した成果は必ず出るんだなと思った試合だった。神様がいるんならプレゼントしてくれたんだと。

  シーズン中に全然タイプの違う監督にコロコロ代わり、クラブとして何がやりたいんだろうという気持ちはあった。哲さん(柱谷哲二監督)にDFをやれと言われ、イバンチェビッチ監督にはFWをやれと。練習でDFやれ、FWやれ…ではうまくなるはずがないと思った。成績も出せないから中途半端な選手だと思われる。サポーターからのブーイングも多く、苦しかった。

 札幌はまだ若いクラブで資金は潤沢ではなく、ビジョンも明確ではなかったと思う。監督交代のタイミングや人選を迷いながらやっていたのだろう。」

  この試合も覚えている。広島の残留がかかっていて、広島もいっしょに引きずりおろそうという気持ちでドームに向かった。
 最初は逆転されて突き放されて苦しい試合だったが、曽田の得点で勢いに乗った。相手GKが林に代わって相川のシュートがゴールした時に林のジャンプした足が相川ののど元に当たってドームが騒然となった試合ではなかったか。
 その時以来ドームで殺気のような雰囲気がを生じてどんどん盛り上がり曽田のハットトリックが出たような記憶がある。
 
 この年は柱谷の監督でスタートしてまったくダメで岡田監督の遺産を食いつぶしていった感じだった。この年からチームは成績も経営も迷走することになった。



               
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2020年05月01日

スポニチ大森健作のマイメモリーズ(2000年7月29日J2浦和戦)

抜粋

「99年オフ、あの岡田さんから直接電話が来たから驚いた。話はシンプルで『来季は必ずJ1に上がりたいから、力を貸してほしい。』と。それが始まりだけど、何で俺に?という感じだった
  点のとれるDFではなかったし、セットプレーでも上がらなかった。でも攻撃は好きだった。後になって俺の左足、攻撃的な能力を評価していると聞かされ、見ていてくれたんだと思ってうれしかった。
 思いでの試合で最初に浮かんでくるのは、やっぱり7月の厚別での浦和戦。決勝点を奪って勝って、見出してくれた監督に褒められて。プロでやっていけると自信がついた試合だった。
 前半に1点失ったが内容は悪くなく、ハーフタイムで後半は『もっと攻撃的に行こう』と選手も監督も言っていた。後半18分に田渕がスーパーゴール。それで押せ押せになって、後半41分。ののさんがプレスに行って、ボールが出てくる方向が限定されると俺がボールを奪って前に運んだ。1人かわしてGKと1対1。両足がつりいそうだったけどたえで、角度はなくても空いていたゴール左上に打とうと振りぬいた。
 決めた瞬間は頭が、真っ白。もちろんゴールパフォーマンスなんて全く考えていない。ののさんが最初に寄ってきて、みんなも来てもみくちゃにされて、何か頭から落ちて脳震盪になって、その後ははっきり覚えていない。(笑い)開幕戦から出て勝ってはいたけど、勝利に直結する活躍でやっと1員になれたと思った。『岡ちゃん』と言わせてもらうが、シャワーを浴びた後に『ありがとな、お前の左足は武器だから』と言われたのは今でも忘れない。岡ちゃんはストレッチしている時もみんなに声をかけたり表情をチェックしていた。そういう意味ではミシャに通じるものがある。普段からサッカー以外の話でもコミュニケーションを取り、気持ちよく練習や試合に臨んでほしいというのを踏まえていた。
 あの年のチームは個性の固まりで、練習でけんかばかり。でも岡ちゃんがうまくコントロールし、ピッチ内はののさんが声で統率して最高の結果を出せた。」

 この試合は今でもしっかり覚えている。浦和との首位争いで、この試合に勝てば勝ち点差をさらの伸ばせるといった試合だった。
 当日曇りだったと思うが、厚別は満員で相当な熱気がスタジアムを覆っていた。
前半に先制されて苦しい試合だったが、厚別の満員のサポーターの後押しでかなりチャンスがあったと記憶している。
 
 後半田渕のゴールが出てイケイケに。健作のゴールの後は厚別が壊れたかと思うほど凄まじい歓声だった。
 ピッチ上の選手達も田渕や健作のゴール後は凄い喜びようだった。特に健作のゴール後は健作の上に選手が折り重なって健作を祝福していた。脳震盪を起こしていたらしいがあれではしかたなかったかもしれない。
 

 この試合で今年は行けると改めて思った。ここから独走状態になった。



   
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posted by 孔明 |19:38 | コンサドーレ の思い出 | コメント(2) | トラックバック(0)

2020年04月30日

スポニチ「砂川メモリーズ2006年12月23日天皇杯準々決勝甲府戦」

抜粋

 砂川が思い出の試合として3つめに挙げたのはクラブ初の天皇杯4強を決めた甲府戦だ。その年はJ2ながら千葉、新潟に続いてJ1を 3連破。新潟戦と甲府戦はフッキを欠く中での快進撃だった。

「自分のベストゲームとかではないけど強く心に残っている。柳下監督の3年目。アクションサッカーに取り組み、J2リーグでは昇格争いに絡もうかというぐらい内容もよかった。
  そんな中で天皇杯は、J1の千葉、新潟、甲府に勝利。準々決勝の甲府戦の前には監督が最後の年なんだとうすうすわかっていた。
だからみんな「柳下さんを勝たせたい。」「少しでもこのチームで長く」という思いだった。

 甲府はJ1で攻撃的ないいサッカーをしていたが、その相手にただ守るのではなく、守備も攻撃も主導権を握ろうと試合に入った。守備ではしっかりプレスに行き、攻撃では真ん中から両ワイドに展開するサッカーで対抗した。俺は3-5-2のトップ下。このシーズンはほぼ先発だった。
 先制点をとり、最後に加賀健一がCKから凄いボレーシュートを決めて勝った。
  今でも目に浮かぶのはサポーターの歓喜。いつも勝利の後にサポーターと選手で一緒に歌う「すすきのにいこう」を、「国立に行こう」に替えて歌ってくれた。
準決勝で敗れたがあと一歩まで迫った年。
  ちなみに、リーグ戦で活躍したフッキは、新潟戦、甲府戦の時既にブラジルに帰国していなかった。(笑) 


 この年の天皇杯の躍進はいまでも強烈に覚えている。フクアリで千葉に勝って。勢いに乗った。しかし、あまり覚えていないのがこの甲府戦。テレビで見ていたとは思うが、次のG大阪戦の方が強烈なインパクトだったのでそちらのほうの思いでしか出てこない。
 この年は川崎健太郎が契約満了になっていたが、天皇杯の活躍で再契約を結んだということが思い出される。
 甲府戦を勝って一気に天皇杯の決勝に行くぞとサポーターも一丸となっていた。リーグ戦があまりかんばしくなかったので余計に天皇杯にかける思いが強かったという思いでも残っている。




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2020年04月27日

スポニチ「砂川メモリーズ2010年12月4日熊本戦」

抜粋

 「2010年シーズンで契約が切れる自分に、9月くらいに来季もコンサでやってほしいという話があった。でも11月末、三上GMに呼ばれ「契約が難しい。お金がない。」と言われ、「分かりました」と答えた。
 自分の口で発表したくて最終戦の何試合か前にマスコミの控室に行き「契約満了になります。」と伝えた。
 例えばその年に10得点10アシストの選手だったら、クラブはどんなにお金がなくても優先的に契約する。そうではないというのは、プロとして自分に責任があるから受け入れなきゃいけない。
 そういう状況もあり、最終戦の熊本戦ではゴール裏のサポーターがでっかく背番号「8」の文字を作ってくれた。
 1人1人のボードに「俺たちの砂川」と書かれていた。

 本当に感動的で、今でも鮮明に覚えている。

  先制点のアシストとFKも決めて最高の形でお別れ。ヒーローインタビューにも立たせてもらった。

 三上さんからは「お金を作るから待っていてくれ」と言われた。その後、三上さんから「今これくらういのお金ができた。」と提示されたが、その金額では厳しく一度断った。

 最終的に12月24日くらいまでずれこみ2010年と同じ給料を用意してくれた。

 正直、移籍先に目を向けてマンションも探していたが、残留を決めた。

 翌2011年にJ1昇格を札幌で味わうことができた。

 後から知ってうれしかった。ゴンさんが石水勲さんに「何とかならないんですか?」と、俺を絶対残した方が良いと言ってくれたみたい。あと石崎監督も。感謝です。
 
  砂川が契約満了になったときには「どうして?」という思いが強かった。その年の最終戦も砂川が初めてFKで点を決めて、砂川のキックの向上も見せてくれた。
 サポーターは「俺たちの砂川」のチャントを繰り返し歌っていた。
 その後急転直下、残留になったのは本当にうれしかった。


 同時にサポーターの1人として砂川に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 砂川は本当に長くコンサにいてくれて、強い印象を残してくれた選手。サポーターみんなから好かれていた選手だった。

 改めてそういういきさつがあったということを知ったのはうれしいことだ。




    
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posted by 孔明 |18:39 | コンサドーレ の思い出 | コメント(2) | トラックバック(0)

2020年04月26日

スポニチ「砂川のメモリーズ」2011年12月3日FC東京戦

 スポニチで「コンサOBメモリーズ」という連載が始まった。

 初回は砂川で2011年の12月3日最終戦の昇格がかかったFC東京戦

抜粋

 「スタンドは超満員で立ち見の人がいる状況。昇格ラインが接戦で、札幌は勝負所で勝てたり勝てなかったりで最終戦に入った。まず思ったのはドームの雰囲気がえげつなかった。ウォーミングアップの時に『やべーな』と。試合前の雰囲気で変な自信が生まれて、勝つべくして勝つと思っていた。
 後半で2-1になって『守り切ろう』ではなく『もう1点取ろう』という感じだった。相手は強いから引いたらやられるし、何より会場の雰囲気を味方につけたままでいたい。その中でも、むやみに行って失点するのは避けようと、俺はうまく時間を使いながら中盤でゲームをコントロールし、後ろでは竜二がしっかり声を出していた。
 後半38分にベンチに下がった。スタッフが徳島(徳島との昇格争いだった。)が0-1とリードされていると教えてくれた。そのまま2-1でいけば昇格できる。というのはピッチの選手に伝わっていたと思う。
 ホイッスルが鳴るとうれしさのあまり、全員ピッチになだれ込んだ。個人的には全ての試合に絡めた充実感、結果も内容も残した達成感が凄かった。加入1年目で主将をやった竜二らが号泣していて、それを見てやっぱりうれしい気持ちになった。
 俺は選手会長だったから、社長に勝利給をベンチ外の選手も含む全員に出すように直談判した。『全員でつかんだものだから』と、オーケーをもらった。
 本当にサッカー人生の中で味わったことのない一番の雰囲気だった。『サポーターの声で最後の一歩が出た。』とかよく言うけど、それを最も体感した試合だった。」


 この試合は個人的にもはっきり印象が残っている試合だった。数日前からかなりチケットが売れていて満員になりそうということが言われていて、「満員の中で昇格を決めたら最高だろうな」と思ってドームに行った。

 内村が期待にたがわぬ2ゴール。「打てば入る」と内村が豪語したのもこの試合だった。会場の雰囲気は凄くて、きっとピッチ内の選手の互いの声は聞こえなかったのではないだろうか。対戦相手のFC東京はもう昇格を決めていて、モチベーション的にも差があったのも幸いした。

  この試合こそサポーターの応援とピッチの選手の動きが一体になった試合だったと思う。1点取られてもなぜか引き分けや負ける気はしなかった。それだけサポーターも選手たちも集中していたんだと思う。

 この試合はこれまで現地で観戦して、かなり印象に残っている試合だ。



   
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2019年12月30日

私的コンサドーレ史13(幼稚園児の中に大人がいると言わしめたエメルソンの凄さ。)

 岡田監督の2年目。1年目でJ2の怖さを思い知らされたチームは攻撃的な選手として快速FWエメルソンを獲得、ほかにも播戸、アウミールなどを獲得、万全の体制で臨んだ2000年
 開幕戦は鳥栖スタジアムで迎えた。

 私と妻も初のアウェイ開幕戦を現地で見るために鳥栖へと向かった。

  実は鳥栖スタジアムは2度目の参戦。前の年の1999年。訪れて雨の中、関のゴールで勝った相性の良いスタジアムだった。

 鳥栖スタジアムはアクセスが非常にいいスタジアム。駅から徒歩でそんなにかからない。スタジアムのコンサ側ゴール裏にはたくさんのサポーターが集まっていた。

 はたして噂のエメルソンはどんな選手かという興味と今年のチーム力はどのくらいかという思いで応援していた。

  開始早々コンサのスピード感の溢れる攻撃。開始13分にサイド攻撃からのシュートのこぼれ球を播戸が押し込んで先制、前半終了間際にはエメルソンがゴールで前半を2-0で折り返した。やはりエメルソンは速かった。

  とんでもない素早い動きからパス、シュートを繰り出して、「これは只者ではない。」と唸らせた。


 後半もエメルソンの2ゴールで4-0と圧勝。エメルソンはハットトリックを記録した。
 妻ともとんでもない選手が来たなと話していた。

  鳥栖スタジアムから駅に行く道、意気揚々と帰る途中

 鳥栖サポーターの話が聞こえてきた。「まるで幼稚園児の中に大人が混じっているようだった。」まさにエメルソンについて話していたのだ。

 それだけ鳥栖サポーターにとっても驚愕の試合だった。

 この試合はその年の躍進を思わせる試合だった。

  そしてその年、2000年7月29日厚別でライバル浦和との対戦で両サイドバックの得点を見ることになる。



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2018年12月31日

私的コンサドーレ史12(宏太のゴールパフォーマンスがサポーターを熱くさせた。)

 前年、不条理なルールのせいもあってJ2に降格したチームで気を吐いたのが吉原宏太だった。

 岡田新監督の下、1年でJ1に返り咲く強い意志をもって臨んだJ2リーグだったが、岡田監督も慣れないJ2リーグで苦戦し、なかなか勝ち点が伸びない状態。J1昇格はかなり難しくなった1999年10月17日アウェイFC東京戦。場所は江戸川区陸上競技場だった。

 その競技場は1997年にも行っており2回目とあって、行きも帰りもスムーズだった。当時宏太はU-22代表に選ばれ、アジア予選を戦い得点を量産して、ゴンの離脱によりコパアメリカの日本代表に選ばれ、パラグアイ戦に出場、キャップ1を記録していた。

 押しも押されぬチームのエースになった宏太。日本代表にもなったことで世間から注目され、サポーターの期待も大きかった。

 当日は雨は降っておらず、曇りだったような記憶がある。

  妻と私はバックスタンドに陣取った。コンサのサポーターはバックスタンドに約半分くらい集合していてかなりの人数がいた記憶がある。

 当時のFC東京はワントップのアマラオを中心に守備が堅く攻撃力もあって、この年J1に昇格するのだが、かなり強かった。確かその時には首位か2位だったと思う。
当時からFC東京サポは相手を挑発するのが好きで岡田監督のあだ名ののび太をモチーフにしただんまくを張り出していた。

 しかし、この試合はアマラオが負傷欠場していなかったことが幸いした。

 前半は押されながらも0-0で折り返し、後半、どんなゴールかは今となっては思い出せないが、とにかく宏太のゴールが66分に出た。その時のゴールパフォーマンスがサポーター、
 特に女性サポを熱くさせた。そのパフォーマンスは機関銃を打つポーズ。それもたくさんのコンササポーターがいるバックスタンドをめがけて機関銃を左右にふる動作をしたのだ。

 当然コンササポは大盛り上がり。そこまでのリーグ戦の苦戦を忘れさせるかのような盛り上がりだった。

 試合はその1点を守って勝利した。帰路は意気揚々と帰った記憶がある。

 その年はJ1昇格がかなわなかったが、再び立ち上がる気配を見せた年でもあった。

  翌年は爆発的な攻撃力と堅い守備力で勝ち点を積み重ねてJ1昇格することになるのだが、その開幕戦、2000年3月12日鳥栖スタジアム。
 鳥栖サポーターが「幼稚園児の中に大人がいるのは反則だ」と言わしめたエメルソンのハットトリックを見ることになる。


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